柄谷行人を読む(3)準備

 以上のことから、柄谷の仕事は、1) 言明としての思考を読解する作業が、2) 2つの切断をはさんで継続されている、3) ひとつの大きな論考群である、とまとめることができるでしょう。あるいは、「柄谷行人」というタイトルのひとつの大きな書物があって、その書物はIからIII巻(前期中期後期)からなっており、各巻のなかに各作品のタイトルが付された章が年代順に配置されている、というイメージで捉えてもよいかもしれません。本草稿では、原則的にこのような認識のもとに、柄谷の作品の読解をすすめていく予定です。


 さて、いよいよ次回からは、一連の論考を読み解く作業にとりかかります。基本的には、毎回、ひとつの論稿あるいは著作をとりあげ、簡単に論旨を要約したうえで、私の解説を付すというスタイルで作業をすすめていきたいと思います。また読解に際しては、柄谷自身がそうしたように、徹底して柄谷の思考だけを読み解くつもりです。つまり記述内容を、著者の個人史や哲学史に結びつけて解釈するようなことはせず、そこに書かれていることだけを読み、それを議論していくということです。こうした作業を続け、ひととおりの論稿を読み終わったところで、「柄谷行人」という書物をひとつの視点のもとに再構成したいと思います。おそらく、その時点で、私が柄谷とサルトルを論ずることの必然性が明らかになるはずです。本草稿の最終目標は、柄谷の切断と言明としての思考の読解   あるいは<批評>   の意味を明らかにすることにありますが、そこに到達するのはまだもう少し先のことになるでしょう。

 最後に、これからとりあげる著作について、いくつか断っておきます。すでに確認したように、柄谷には著作以外にも数多くの対話集があり、そこでの発言にはたいへん興味深いものもあります。しかし、本草稿はあくまでも著作の読解を目的としており、対話における発言をとりあげて論ずることはありません。また、柄谷は、後期に相当する時期に『定本柄谷行人集』を出版し、そのなかで過去の主要な著作を大幅に書き直し、一部の過去の作品については絶版にしています。柄谷のコメントを見る限り、彼自身はこの『定本』を最終稿とみなしているようです(『定本柄谷行人集』著者からのメッセージ)。しかし、柄谷の場合には、切断の意味を解釈することそのものが切断後の仕事の性質を決定づけています。その見地からすれば、自身の切断を自覚した後に書き直した書物は、切断後のものとして扱うべきものです。もちろん、これも柄谷自身の著作であることに変わりはないので、必要に応じて参照はするかもしれませんが、以上のことから、本草稿では、できるだけ最初の出版時に近いものを読解の対象にすることとし、『定本』じたいを対象にすることはありません。また、柄谷には単なる日本語版の翻訳ではない、英語で出版された3つの著作   Origins of Modern Japanese Literature (1993), Architecture as Metaphor (1995), Transcritique: On Kant and Marx (2003)   があります。これらも、特に前2者は前期の作品を中期に相当する時期に書き直したものであり、またいずれも『定本』に日本語で再収録されていることから、やはり『定本』と同様に扱うものとします。


 では、準備はここまでです。次回は柄谷のデビュー作である「意識と自然   漱石試論」をふくむ『畏怖する人間』を読むことにしましょう。