柄谷行人を読む(11)『マルクスその可能性の中心』

 今回は『マルクスその可能性の中心』をとりあげます。参照するのは1990年発行の講談社学術文庫版です。

 本書は、いうまでもなく柄谷の代表作のひとつであり、一連の論稿群を読解する作業においてもひとつのメルクマールとなるものです。一方で、そのタイトルが有名なわりには、意外なほど正面から論じられることの少ない作品でもあります。本書の内容は、ひとことでいうなら、マルクスのテクストの根本的な読み替えです。このような作業は、もはや文芸評論の枠組みに納まるようなものではありません。そしてそこで展開される議論、たとえば貨幣による価値形態の隠蔽、異なる価値体系から生ずる剰余価値マルクス自身の地理的移動といったものは、後の『探究』、『トランスクリティーク』でもそのまま反復されています。こうしたことから、前作の『意味という病』と本作の間に「切断」を設定し、文芸評論家柄谷行人はこの『マルクスその可能性の中心』から哲学者・批評家「柄谷行人」になったのだというのがひとつのステレオタイプ化された言説となっています。これについては、ほかならぬ柄谷自身がそう自覚している節があり、『意味という病』の「あとがき」でこう記しています。

私はもはや文芸評論を書く気がまったくなくなっており、すぐに(なぜか)マルクス論にとりかかったのだが、いっこうに書けなかった。…私にとって最も惨めだったのは、「マクベス論」を書いてからの数年間であったといってもよい。…文芸ジャーナリズムのなかで仕事をしている間、私は惰性をたちきることができなかった。私はその間、ひそかに根本的な「切断」の時を待っていた。それは、具体的には外国へ行くことにほかならなかった。
「第二版へのあとがき」『意味という病』、p312


 ここで「外国へ行く」というのが渡米のことであり、「切断」の後にくるのが『マルクスその可能性の中心』であることは明らかです。ただ細かい事実を確認しておくと、「マクベス論」が雑誌「文藝」に掲載されたのが1973年3月、論稿「マルクスその可能性の中心」が雑誌「群像」に連載されたのは1974年3月から8月、柄谷がイエール大学東アジア学科客員教授として渡米したのが1975年から1977年、前記の連載が大幅に改稿された『マルクスその可能性の中心』が出版されたのは1978年です*1。つまり「群像」に掲載された論稿「マルクスその可能性の中心」の時点では、柄谷はいまだ「切断」していなかったのであり、正確には「切断」は「マルクスその可能性の中心」と『マルクスその可能性の中心』のあいだにあるといわなくてはならないでしょう。しかし、では『マルクスその可能性の中心』は本当に「切断」後の論稿であるのか。柄谷は次のようにも述べています。

このマルクス論を文芸雑誌「群像」に連載したのは、一九七四年の春ごろである。その翌年、私はエール大学に行き、そこで知りあったポール・ド・マンをはじめとする哲学者や批評家を身近な読者として、それを根本的に検討しなおした。その仕事は今も続行中であり、納得が行くものになれば、英文で出版しようと思っている。本書にいれたのは、四年前のものを大幅に改稿した分であり、「序説」というべきものである。
「あとがき」『マルクスその可能性の中心』、p233


 付け加えておくなら、柄谷は1985年の時点(『内省と遡行』の「あとがき」)でも、『マルクスその可能性の中心』は出版したが、「群像」に連載された「マルクスその可能性の中心」は未刊行であると記しています。これは柄谷にとって『マルクスその可能性の中心』が、どこまでも完成途上の試みにすぎなかったことを示しています。そして現在から振り返ってみれば、この「納得が行くもの」として「英文で出版」されたのが『トランスクリティーク』であったということになるでしょう。その意味では「切断」なるものは、本書の出版時点ではまだ完結していなかったのです。

 こうみると、この『マルクスその可能性の中心』の前に「切断」があった、あるいは同書が「切断」後の作品であるとみるのは必ずしも正確ではないことがわかるでしょう。最初に記したように、私は本書の前に<切断I>があるとはみなしません。もちろんそう考えるのはここで述べたような理由からではなく、完全に理論的な理由からです。しかし、それは柄谷の個人史的な観点からいってもそうなのです。端的にいえば一見した著述スタイルの変化にもかかわらず、本書の議論の構造は『意味という病』と完全に連続しています。もちろん本書と前作とのあいだに変化があることを、私も否定はしません。しかし、その変化は『畏怖する人間』と『意味という病』のあいだにあるそれ   前者のモチーフである実存(内面)と社会(外界)の逆接としての「自然」に対する、理論(観念)と現実という軸の導入   と比較して、ことさら強調されなくてはならないほどのものでもない。むしろ一連の作品の連続をとらえる視点において、はじめて『マルクスその可能性の中心』がそれに先立つ作品と何が違っているのかが見えてくるのです。そのことを理解せずに安易に「切断」をみてしまうものは、柄谷の作品を実際には読まずに単にイメージだけでとらえているか、あるいは柄谷自身の自己理解にひきずられているだけで、そこで何が議論されているのかを理解していないのです。

 『マルクスその可能性の中心』では何が議論されているのか、本書の前後で何が連続し、何が変化しているのか。それを著述の一部分ではなく、作品の全体を通して完全に明らかにすること。それが今回の読解の課題となります。そしてそれは間違いなく、本書に関してなされるはじめての読解作業となるはずです。


マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)

*1:このあたりの個人史の前後関係は、『意味という病』(講談社文芸文庫)や『マルクスその可能性の中心』(講談社学術文庫)の巻末に収められた初出一覧などから辿ることができる。あるいはウェブ上ではKARATANI-B哲学の劇場>作家の肖像>柄谷行人によくまとめられている。