柄谷行人を読む(12)『マルクスその可能性の中心』

 書物としての『マルクスその可能性の中心』には、表題作である「マルクスその可能性の中心」以外にも、「歴史について   武田泰淳」、「階級について   漱石試論I」、「文学について   漱石試論II」という日本文学に関する3つのエッセイが収められています。柄谷自身が「私はそれらをすこしも区別していない(同書「あとがき」、p235)」というように、確かにこれらの議論の背景には共通の構造があります。このうち、特に注目しておくべきは漱石論でしょう。なぜならそのモチーフが、本書に続く『日本近代文学の起源』に発展していくからです。

つけ加えていえば、漱石論のなかで言及した、日本における「風景の発見」という問題は、これから包括的に考えて行きたいと思っている。その意味でも、本書は「序説」である。*1
「あとがき」『マルクスその可能性の中心』、p237


 つまり、ある意味で『マルクスその可能性の中心』は、「マルクスその可能性の中心」という論稿と『日本近代文学の起源』の一部をなす論稿から成立する論稿集なのです。いささか先走っていえば、これは柄谷にとって両者がひとつの同じ試みから生み出されたもので、本来的に区別されるものではないことを意味しています。こうした両者の関係については『日本近代文学の起源』の読解の際に詳しく論じる予定なので、ここではこれ以上立ち入ることはしません。ただ、以下で私は論稿としての「マルクスその可能性の中心」を『マルクスその可能性の中心』とみなして読解しますが*2、そこにはこのような背景があるということを理解しておいてください。


 さて『マルクスその可能性の中心』は、序章と終章を含む7つの章から構成されています。これらは内容から4つの部分に分割することができます。すなわち、マルクスの「読む」姿勢を論じた序章、『資本論』の価値形態論と資本が剰余価値を生み出す過程を論じた第2〜4章、マルクスの地理的移動とテクストの読解を論じた第5、6章、そして言語の問題について論じた終章です。まずはそれぞれについて要約しながら、解説を施していくことにします。


要約:『マルクスその可能性の中心』序章


 序章では、そのタイトルにもあるマルクスを「可能性の中心」において読むとはどういうことかが説明されています。その例として、マルクス自身の学位論文『エピクロスデモクリトスにおける自然哲学の差異』がとりあげられます。柄谷によればマルクスは、エピクロスデモクリトスの亜流とみなす哲学史的な通念を解体しようとしました。つまり、デモクリトスエピクロスの自然哲学は本来は同一のものであり、その相違はエピクロスが加えた恣意的な変更にすぎないという見方を覆そうとしたのです。このときマルクスは、両者の体系を比較するのではなく、あくまでも個別の相違(微細な差異)に注目しています。この「顕微鏡的研究」が、エピクロスエピクロスであり、デモクリトスデモクリトスであるという偏見を打ち砕くのです。つまりマルクスは哲学を包括的、体系的に解釈するのではなく、断片としてのテクストそのものを読むことで、固定された概念から離れ、概念そのものが生ずる場に立ち会おうとしたのです。

 柄谷はこのようなマルクスの態度は、『資本論』においても貫かれているといいます。すなわちマルクスは、古典経済学というテクストを読むことで、貨幣や価値に関する固定された概念を打ち砕き、それらが成立する場を見出そうとしたのだ、と。にもかかわらず現状では、『資本論』はマルクス主義の書であり、弁証法唯物論史的唯物論の書であると読まれてしまう。あるいは、ヘーゲルの亜流、古典経済学の亜流とみなされてしまう。これでは何も読んだことにならない。われわれもマルクスと同様に、マルクスの名前や哲学史から離れて、そのテクストの断片そのものを読むべきなのだ、柄谷はそういっているのです。

 すこし解説しておきましょう。ここで柄谷は体系的な理解に対して、断片的なテクストの読解を主張しています。これをもう少し一般的に言い換えると、言明の内容を決定する概念ではなく、言明そのものを成立させる場を問うべきだということです。たとえば「リンゴは赤い」、「リンゴは落下する」という言明を前にしたとき、ひとはそこにリンゴという言葉が指しているもの、概念をみようとします。つまりこれらの言明はリンゴという概念を説明するものであって、その概念は言明に先立ってあると考えるのです。体系的に理解するとはそういうことです。しかしそう理解するとき、私たちは、これらの言明において述べられていないもの、例えばリンゴは木になり、食べると甘く、中には種があり、といったことを言明に先立って想定しています。柄谷が批判しているのは、そのような言明に先立つ想定であり、そのような想定を許す解釈です。つまり「リンゴは赤い」、「リンゴは落下する」という言明を前に、直ちにリンゴという概念を想定してしまうのではなく、あくまでも2つの言明の相違にとどまること。まずリンゴというものがあって、それが赤かったり落下したりするのではなく、あるのはどこまでもリンゴの色や運動を記述している言明であって、その相違=差異そのものとしてリンゴの記述はあるとみること。言い換えれば、赤いリンゴと落下するリンゴの差異がリンゴの記述を可能にしているとみること。このように、柄谷の言う「可能性の中心」において読むとは、言明の記述のなかにリンゴを見出す(体系的に理解する)のではなく、リンゴを記述する言明の発生を見出すこと(断片的なテクストの読解)を意味しているのです*3


マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)

*1:もっとも、『日本近代文学の起源』の原型は1975年から77年までの渡米中にイエール大学で行った講義にあるとされており、この「あとがき」が記された1978年の時点では、すでにその基本構想はできあがっていたものと思われる(『日本近代文学の起源』の出版は1980年)。

*2:以下、とくに断りがなければ「群像」連載の論稿を「マルクスその可能性の中心」、書物として出版されたもののうち文学論を除いたものを『マルクスその可能性の中心』と表記する。本文中に記したように、これは同書に収められた文学論を『日本近代文学の起源』の一部とみなして論ずるための措置であり、決してそれらを無視するわけではない。

*3:これは『探究II』などで論じられている固有名の議論、つまり「このリンゴ」の「この」性に関する議論とは異なることに注意しなくてはならない。『マルクスその可能性の中心』の段階では、言明を貫く概念の同一性に対する差異という「場」が問題となっていたのであり、それを束ねる固有指示子という問題意識はない。その問題意識が生ずるには、<切断I>を経なくてはならない。