柄谷行人を読む(13)『マルクスその可能性の中心』

要約:『マルクスその可能性の中心』第2〜4章

  • 2つの商品が等置されるとき、一方の商品の価値は、他方の使用価値で示される。このとき、相異なる使用価値から価値がうまれる。これが相対的価値形態と等価形態の結合である。
  • これが「拡大された価値形態」において、相異なる商品の連鎖としてとらえられるとき、マルクスは一般的価値形態=貨幣形態が出現するという。しかし、これは貨幣形態を完成態とみなす目的論的思考である。「拡大された価値形態」において、相対的価値形態と等価形態は、入れ替わることが可能であって、あるのは相異なる使用価値の関係、つまり差異の戯れだけなのである。
  • 貨幣形態はこの価値形態をおおいかくす。しかし、このおおいかくすという性質が、貨幣を資本に転化させる。
  • 商人資本についていえば、G-W-G'という過程は、2つの隔離された異なるシステムの間においてのみ成立する。このとき、システムとしての差異は、商品の価格差として現れる。
  • 商人資本は空間的な価値体系の差異から剰余価値を生み出す。これに対して、産業資本は高度の技術革新による生産性の向上によって、いわば時間的に異なる価値体系をつくりだす。
  • マルクスは恐慌を資本制に内在するものとみなした。資本を可能にする条件が、同時に、恐慌の条件なのである。


 この第2〜4章では、序章での予告どおり、おもにマルクスの価値形態論が「可能性の中心」において読まれています。「おもに」というのは、実際にはマルクスとほぼ同程度に、ソシュールニーチェが読まれているからです。その結果、描き直された「マルクスの価値形態論」は、「マクベス論」における「マクベス」と同様、その骨格以外は原形をとどめないものとなっています。もちろん著作家が「支配していない」体系を描き出すことこそが本書の目的*1なのだからそれでいいのですが、事実として、もはやマルクスの書いたものではないことは確かです。その意味では、本書における柄谷のマルクス読解は正しいとか間違っているとかいうような批判はあたらないでしょう。実際に、本書で柄谷は再三のようにマルクスを批判しているのであり*2、ある意味ではマルクスがあえてヘーゲルの用語を用いたというように、柄谷はマルクスの名前と用語を用いているのです。しかしながら、批判的であるにもかかわらず徹底してマルクスに寄り添うそのスタイルが、本書における柄谷自身の論点を見えにくくする原因になっているのも確かです。そこでここでは、できるだけマルクスの用語を排して、柄谷の議論をたどっていくことにしましょう。

 ここでの記述はいっけん複雑に見えますが、実際に論じられている内容は比較的単純です。柄谷はまず商品から始めます。2つの商品が並べられるとき、一方の商品の価値は、もう一方の商品の使用価値であらわされます。たとえば、1本の鉛筆と1個の消しゴムの価値が等しいとみなされるのは、1本の鉛筆に1本の消しゴムで字を消すのと等しい有用性があるから、ということです。このとき、その鉛筆は鉛筆として、はじめてそれ自身の価値を持つことになります。なぜなら、単に鉛筆が鉛筆である限りは、ただそれを使って字が書かれるだけで、そこに価値なるものはないからです。商品はそれが他の商品と比較されるときに、はじめて価値をもつのです。

 この関係が2つの商品の相互関係ではなく、無数の商品の連鎖としてとらえられるとき、使用価値による価値の表示は相互に入れ替え可能となります。つまり、鉛筆の使用価値が消しゴムの価値を表すというような特定の商品の相互関係ではなく、一般的な商品のあいだに使用価値と価値の関係が成立することになります。マルクスはこの関係が未完成であるから、ここから「不可避的に」貨幣が生れるというのですが、柄谷はそれを否定します。それは貨幣を説明しようとするから未完成にみえるのだけで、実際にあるのはただもろもろの使用価値の関係だけではないか、というのです。むしろ商品の価値なるものこそ、貨幣を説明しようとするから見出されるのだ、と。そして柄谷は、貨幣を異なる使用価値の関係を覆い隠すものとみなすのです。

 続いて、もろもろの使用価値の関係が、ひとつの価値体系とみなされます。そこから柄谷は、貨幣が資本になる過程を描き出します。資本は単なる貨幣の集積ではなく、剰余価値を得て自己増殖するものです。では、資本はどうやって剰余価値を得るのか。それは異なる価値体系の差異からです。つまり、同じ商品でも、異なる価値体系におかれたときには価値が異なる。その同じ商品が異なる価値をもつことを利用して、資本は剰余価値を得るのです。このとき異なる価値体系を貫いて商品の価値を比較できるのは、商品そのものに価値を見出させるもの、つまり貨幣があるからにほかなりません。そして商人資本は、地理的に異なる価値体系の差から、産業資本は生産能力の向上による時間的な価値体系の差から剰余価値を得るのです。

 こうみると柄谷の議論は極めて明快であることがわかるでしょう。すなわち柄谷は、現実にはもろもろの使用価値の関係があるだけである、それを貨幣が覆い隠すところに商品の価値が見出され、剰余価値が生まれ、資本が生れるのだといっているのです。しかし、この議論には単純な疑問が生じます。柄谷は貨幣からはじまる思考を批判し、それを形而上学として退けています。

形而上学とは、語の意味が示差的な関係においてあるにすぎないのに、意味を超越論的なイデアとしてとり出すことである。すると、貨幣形態またはそれにもとづく思考は形而上学的であり、その批判は、経済学にとどまらず、一切の形而上学への批判と化すのである。あるいは形而上学の根底に、「貨幣形態」が存在するといってもよい。それゆえにこそ「貨幣形態」の起源への問いが困難なのであって、いつも形而上学的なわなにはまってしまう。マルクス弁証法的な叙述も例外ではない。
同書、p50。


 しかし、その形而上学的な思考を排して柄谷が描き出す世界では、貨幣が現実にもろもろの使用価値の関係を覆い隠し、資本に「転化」しています。ということは、この現実を覆い隠すところの貨幣は、経済哲学者の形而上学的思考によってつくりだされた概念などではなく、実際に貨幣を使っている私たちがつくりだしたものではないでしょうか。もしそうだとすれば、柄谷が批判するべきは経済哲学者よりも、それと意識せずに形而上学的な貨幣をまさに形而上学的に使っている私たちということになるでしょう。ではこの意識せずに現実的に形而上学的にふるまっている、あるいは形而上学的な世界に現実的に生きているところの私たちとは、いったい何ものなのでしょうか。


マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)

*1:同書、P25。

*2:その意味では、後の『トランスクリティーク』における全面的に肯定的な記述とは異なっている。