柄谷行人を読む(14)『マルクスその可能性の中心』

要約:『マルクスその可能性の中心』第5、6章

  • 資本論』は商品というテクストを「読んだ」。マルクスの思想に切断を見出す作業は恣意的である。マルクスの思想は、テクストの読解にある。一般に切断といわれるところで、マルクスはただ移動したのである。
  • マルクスは、ドイツの哲学、フランスの政治思想、イギリスの経済学と、対象を移動しながら、たえず言語を問題としてきた。マルクスはそこに根源的な差異を見出す。
  • 人間という概念は、関係を隠蔽する。関係とは、差異化のなかではじめて存在するものである。差異化の間から意味がうまれ、その恣意性を抑圧するところに、意識の自己原因がうまれる。
  • マルクスは「問題」の提起が受動的なものであることを強調した。これは構造に強いられているということではない。構造とは目的から把握されたものであり、目的とは差異化の抑圧から生れるものである。マルクスの提起する「問題」とは、差異化がもたらすものである。


 続く第5、6章では、それまでとは一転して、マルクスの価値形態論ではなく、価値形態論を論ずるマルクスが論じられています。もちろん、ここでも「可能性の中心」において読むという姿勢に変化はなく、いわば『資本論』というテクストを読むようにマルクスの個人史というテクストが読まれていきます。この作者とその作品を同一の地平で読解するという方法じたいは、柄谷の論稿において目新しいものではありません。すでに指摘したように、「意識と自然」においては漱石の小説の登場人物と漱石自身が、「マクベス論」においてもマクベスの登場人物とシェークスピア自身が、同一の議論の枠組みで議論されています。その意味では、従来のやりかたを踏襲したにすぎないのですが、ただ本書ではそれまでと違って、「可能性の中心」において読むという方法が自覚されていることに注意しておく必要があるでしょう。

 ではここで何が論じられているのでしょうか。柄谷はマルクスというテクストを読解することで、テクストを読解するマルクスという像を描き出します。比較として論じられるのが、初期マルクスと後期マルクスの関係についての議論です。一般に『経済学・哲学草稿』を書いた時期の初期マルクスは、疎外論を問題にしていたとされます。それは、人間は社会のなかで本来の人間性を失っている、それを回復しなくてはならない、という考え方です。一方『資本論』に代表される後期マルクスは、社会が人間のすべてを決定すると考えていたとされます。そこで議論となるのが、マルクスが初期の疎外論を捨てて後期の考え方にいたったのか、それとも初期の発展として後期の考え方があるのか、という問題です。しかし柄谷はいずれの立場も採用せず、この問題設定そのものを否定します。マルクスは初期から後期に発展したのでも、初期を捨てて後期になったのでもない、マルクスは最初から最後まで、ただテクストを読解しただけだというのです。そしてマルクスの個人史を追いながら、ドイツでは哲学を、フランスでは政治思想を、イギリスでは経済学を読解したマルクスの姿を描き出します。マルクスは対象となるテクストを読むことで、概念に覆い隠された差異の戯れを見出し続けたのであり、価値形態論もそのひとつであると位置づけられるのです。

 重要なことは、ここで柄谷がマルクスの地理的(比喩的な意味ではなく物理的な意味での)移動を強調していることです。実際に、マルクスが単に読む対象をかえただけでなく、マルクス自身が現実的に移動したということが繰り返し述べられています。これは柄谷が、哲学史的な概念となった思想家マルクスではなく、カール・マルクスという名のひとりの人物の現実の生を描こうとしていると理解するべきでしょう。それはテクストを読解することで概念に覆い隠された差異の戯れを見出すという、柄谷が言うところのマルクスの方法を、マルクス自身に当てはめる結果なのです。このとき、同時にテクストを読解するマルクスというものも消え去ってしまいます。テクストの読解そのものが、特定の個人の営みから切り離されるのです。


マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)