柄谷行人を読む(15)『マルクスその可能性の中心』

要約:『マルクスその可能性の中心』終章

  • 思考を強いているのは言語である。西洋形而上学において、論理学と存在論は切り離せない。言語における主語と述語を結ぶ「Be(存在)」の問題が、そのまま存在論に移行する。
  • 同様に「貨幣の形而上学」は、関係を存在にする。単に主語と述語の関係を転倒するだけではヘーゲルの論理学=存在論を超えることはできない。そのためには、「主語と述語」の構えそのものを派生させる起源への問いがなくてはならない。


 終章では、言語の問題が論じられています。いっけんすると、マルクスに関する議論とは関係ないようにもみえますが、ここまでの流れをみればそれが必然的なものであることがわかるでしょう。これまでになされた価値形態論およびマルクスの個人史の読解のやり方そのものが、あらためて言語の問題として問われているのです。

 ここでも議論は明確です。序章で議論されたように、「リンゴは赤い」という言明の「リンゴ」と「赤い」の関係において、「リンゴ」はすでに「赤い」を含むものとしてあります。このとき、言明に先立って「リンゴ」なるものが存在することになってしまう。この「リンゴ」という概念を存在に転化してしまうものは何であるか、と柄谷は問うているのです。これは序章の議論の反復ではありません。序章では、テクストを読むことで、概念が覆い隠している差異を描き出す戦略が語られていました。この終章では、差異を描き出すだけではなく、なぜ差異を覆い隠す概念がつくりだされるかを考える必要があるといわれているのです。この違いには注意が必要です。なぜなら、概念が差異を覆い隠しているが、実際にあるのは差異だけであるというとき、その概念をつくりだすものは決して差異ではありえないからです。もし概念も差異がつくりだしているのだとすれば、差異は自らを覆い隠していることになり、これでは差異を概念とみなしているのと同じことになってしまう。差異を描き出すだけでは、概念の謎を解いたことにはならないのです。


 それでは、ここまでの読解をふまえて『マルクスその可能性の中心』の全体の議論を概観してみましょう。本書はほとんど明確な起承転結によって構成されています。最初に、概念を読み取るのではなく、概念が覆い隠す差異を見出す戦略が宣言されます。続いて、マルクスの価値形態論の読解により、貨幣が覆い隠すもろもろの使用価値の関係が見出される。そして、マルクスの個人史の読解により、テクストの読解とそれに先立つマルクスの生が論じられ、最後に、なぜ概念が言明を成立させる場を覆い隠すのかを明らかにする必要があると述べられて終るのです。


マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)