柄谷行人を読む(16)『マルクスその可能性の中心』

 最初に私は、本書と『意味という病』の間に「切断」はないと述べました。これからその理由を明らかにすることにしましょう。もう一度、『意味という病』の議論の構図を確認しておきます。それは「実存か社会か」という問いに対して、実存の問いも社会の問いもいずれも理論であり、それに先立って実存社会という現実があるというものでした。本書においても基本的には同じ視点から議論が展開されています。

 柄谷の描き出す「マルクスの価値形態論」では、貨幣とはもろもろの使用価値の関係を覆い隠しているものです。そこで柄谷はこの貨幣に先立つ現実を描き出そうとするのですが、ここでは逆に現実が貨幣によって覆い隠される過程について考えてみましょう。もちろん「マルクスの価値形態論」において、貨幣は一挙に現実を覆い隠すのであって、なにか時系列的な段階のようなものを踏んでそうするわけではありません。あくまでも以下の記述は、形式的な関係を明らかにするためのものであることを忘れないでください。

 さて柄谷の記述によると、現実にあるのはもろもろの使用価値の関係だけであり、それがそのまま差異であるとみなされています。

この「総体的なまたは拡大された価値形態」において、相対的価値形態と等価形態はけっして限定的な関係をとらない。シニフィエとしての商品もまたシニフィアンとしてあらわれるからである。たとえば、「亜麻布の価値が上衣の使用価値で表示される」というとき、亜麻布と上衣の位置がいれかわってもかまわない。いいかえれば、「価値」なるものはなく、相異なる使用価値の関係が、もっと正確にいえば「差異」のたわむれが根底にあるだけなのだ。
同書、p37。


 しかし、この記述はいささか曖昧であり、正しくないというべきでしょう。そもそも使用価値というものは、その言葉の通りすでに「価値」を前提としたものです。柄谷は「価値」なるものは貨幣によってもたらされたものだといっているのですから、その意味では使用価値も貨幣によってもたらされるのであり、すでに貨幣が現実を覆い隠すことに加担しています。よって正確には、現実には「使用」だけがあるというべきでしょう。では「使用」とは何でしょうか。いうまでもなくそれは、私たち人間が物質を用いることです。つまり、私たちはただ物質を使っている、それだけが現実なのです*1。そして差異とは、「使用」における人間と物質の間にある差異のことであり、さらにいえば人間と物質は違うということそのものなのです。すべてはここから始まります。


マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)

*1:さらにいえば、あるのはただ人間と物質のもろもろの関係だけであり、「使用」というのもその関係のひとつに過ぎない。