柄谷行人を読む(17)『マルクスその可能性の中心』

 この現実が、まず使用価値に転化します。それはどのようにしてなされるのか。使用価値というものは、ある物質の「使用」ともうひとつの物質の「使用」を比べるところに生れます*1。たとえば、ただ鉛筆で字を書いている限り、それはどこまでも「使用」にすぎません。それが消しゴムで字を消すことと比べられるときに、はじめてそこに鉛筆としての使用価値があることになる。では、それはどのように比べられるのか。鉛筆で字を書くことと、消しゴムで字を消すことを比べるのだから、当然ながらまず最初にそれらが鉛筆であり消しゴムであるということが特定され、区別されなくてはなりません。このとき、使う側の人間は決して特定、区別されません。結局、比べられているのは鉛筆と消しゴムの「使用」なのですから、「使用」する人間のほうは誰でもよいのです。このとき人間は、個々の特性は問題とされず、どこまでもその物質を使う人間でしかない。言い換えれば、「使用」という人間と物質の関係が物質に還元される。その結果として、物質の使用価値は生れるのです。

 こうして生れた使用価値から、次に「価値」をもつ商品が生れます。「価値」が生れるのは、物質の使用価値が単に並べられるだけでなく、等しいものとして「等置」されるときです。このとき、一方の使用価値がもう一方の「価値」をあらわすことになります。先ほどの例で言えば、1本の鉛筆の使用価値と1個の消しゴムの使用価値が等しいとみなされるときに、その鉛筆には1個の消しゴムの使用価値に等しい「価値」があることになるということです*2。そしてその結果、鉛筆は「価値」をもつ商品となるのです。では、ここで「等置」しているのはいったい誰なのでしょうか。もちろん普通に考えればそれは人間です。物質がみずから他の物質を並べて比較するなどということは、私たちの通常の感覚ではありえません。しかし、そうであるにもかかわらず、物質の使用価値を「等置」し、商品に「価値」をもたせているのは人間ではなく物質であるとされている。その理由は明らかでないが、なぜかそうであることになっている。結果、ある物質がもろもろの物質の使用価値を「等置」し、商品に「価値」をもたせていることになる。この物質が貨幣にほかなりません。つまり貨幣は、商品を「等置」する人間が物質=商品に還元されるところに生れるのです。

 そして最後に貨幣が資本に転化します。資本は剰余価値を得て増殖するもので、剰余価値は2つの価値体系の差を利用して生れます。Aという価値体系では80円の鉛筆が、Bという価値体系では100円であるとしましょう。このときAで鉛筆を買い、Bで売れば20円の剰余価値を得ることになります。ここでこの剰余価値が生れるためには、AとBの両方の価値体系を通じて鉛筆が特定され、両方の価値体系を通じて貨幣が鉛筆に「価値」を与えていることが前提です。しかし、決して貨幣そのものがAとBの価値体系とその差をつくりだして剰余価値を生みだすわけではありません。商人資本であれば地理的条件、産業資本であれば技術革新がその差をつくりだすのです。ここでもやはり通常の感覚で考えれば、貨幣を所有する人間が資本家となって、価値体系の差を利用し、剰余価値を得て貨幣を蓄積するのであって、貨幣じたいが自律性をもって増えるわけではありません。にもかかわらず、資本は貨幣が自己増殖するものである、とされている。その結果、資本=貨幣がみずから価値体系の差を利用して剰余価値を生み出し、それを獲得することになる。つまり資本は、貨幣を蓄積する資本家が物質=貨幣に還元されるところに生れるのです。

 このようにみてくると、柄谷の「マルクスの価値形態論」において貨幣が現実を覆い隠す過程は、そのまま人間と物質の間にある、「使用」、「等置」、「蓄積」といった諸々の営みが、すべて物質に還元される過程であることがはっきりするでしょう。そしてそのすべてが還元されたところにあるのが貨幣なのです*3。このとき上記の過程には、商品に「価値」をもたせているのが物質=貨幣であるとしているところのもの資本を物質=貨幣の自己増殖であるとしているところのものがあったことを忘れてはなりません。結局それは、貨幣にすべてを還元するものであり、人間と物質の関係をすべて物質に還元するもののことです。ではこれは何なのでしょうか。もしこれも貨幣であるとすれば、貨幣は人間と物質の関係をすべて物質に還元してみずから貨幣として成立していることになります。もちろんそのように考えることは可能ですが、それでもその考えを可能にするものがあるのであって、結局それは貨幣以外のなにものかでなくてはならない*4。こう考えると、もはやそれは、人間と物質の関係をすべて物質に還元せよ、という命令としか言いようのないものです。人間と物質の関係をすべて物質に還元することを、私たちは通常、唯物論とよんでいます。したがってこういうことになるでしょう、唯物論を強いているものが貨幣を生み出すのだ、と。


マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)

*1:すべてが人間と物質のもろもろの関係からはじまるのであれば、厳密に言えば、「使用」を比べるに先立って「使用」という人間と物質の関係が特定されなくてはならない。しかし、それがなぜ特定されるのかはいうことができない。なぜならここで描き出そうとしているのが、柄谷の「マルクスの価値形態論」において貨幣が現実を覆い隠す過程であり、貨幣に到達する過程だからである。それは現に「使用」からはじまるとしかいえない。

*2:ここで「等置」される物質=商品の数量が導入されていることに注意が必要である。結局「等置」じたいが、すでに対象となる物質の特定および数量の特定を含んでいるのであり、そしてこの2つの特定が「価値」を価格=貨幣に還元された数としてあらわすことを可能にしているのである。詳しくは別の機会に論ずる。

*3:資本は貨幣の自己増殖であるという限りにおいて、結局、資本も貨幣に還元されている。

*4:そうでなければ、一切は貨幣であり、一切は貨幣の自己展開であることになる。もちろんこれはヘーゲル的な思考であるが、ここでそのような考えをとらない理由は、ヘーゲルの思考が正しくないからではなく、端的に柄谷がそういっていないからである。繰り返すが、私が述べているのはあくまでも柄谷の読解であって、そもそも貨幣とは何かということを論じているのではない。