柄谷行人を読む(20)『日本近代文学の起源』

 『日本近代文学の起源』は、「季刊藝術」1978年夏号〜1979年冬号、「群像」1980年新年号〜6月号に掲載され、1980年に単行本として出版されました*1。ごく一般的な解釈からすれば、本書の内容は、われわれにとって自明と思われる「風景」や「内面」といった概念が、明治日本の急速な近代化の過程で生み出されたものであることを解明したもの、ということになります。そしてそう解釈する限りにおいて、本書はいわゆる社会構築主義(Social constructivism)の先駆的な作品であると位置づけられてもおかしくはありません。社会構築主義とは、われわれにとって常識的な概念が、特定の社会的条件において構成されたものであることを明るみに出すことで、その概念を中心に形成された権力を解体=脱構築しようとするものであり、大きな意味での近代=モダニズム批判です。実際、本書に近代批判、日本文学批判の意図があったことは明らかで、それは柄谷自身も認めています。

私が本書でやろうとした、近代文学の「批判」は、日本の文脈においても、特に新しいものではない。たとえば、1970年代の前半には、近代批判はむしろありふれていた。それは、60年代の経済成長と新左翼運動と連関している。さらに、それすらも別に新しいものではなかった。というのは、それは、ある意味で、1930年代後半に唱えられた「近代の超克」の議論の変奏として見ることができるからである。
「『日本近代文学の起源』英語版への後書き」、1991年。


 しかし、このような側面だけに注目していては、本書の読解として十分なものとはなりません。柄谷は本書文庫版に付された「著者から読者へ」で、「「近代の批判」などとるにたらない」*2としたうえでこう述べています。

私のこの本も、結局そういう流れ(ポストモダニズム)のなかに属していることが、今からふりかえってみるとよくわかる。むろん、それはこの流れを加速させたものでもあった。その意味でなら、本書の役割はもう終ったというべきであろう。しかし、私の関心事はそういうことにあるのではなかった。つまり、近代の批判や近代文学の批判などにあるのではなかった。それは、言葉によって在る人間の条件の探究にある。誰もそれを逃れることはできない。われわれは、そのことを痛切に感じることになるだろう。
「著者から読者へ、ポール・ド・マンのために」『日本近代文学の起源』、p249。


 つまり本書は近代批判であるのみならず、言語の問題を論じた書物だというのです。これについて、少なくともそれを書いた柄谷自身の問題意識としては、近代批判より言語の問題のほうが先行していたとみるべきでしょう。だからこそ、たとえ近代批判の「役割はもう終った」としても、(少なくとも柄谷にとっては)本書の意義は失われていないことになるのです*3。したがって、本書をたんに社会構築主義的な近代批判の書とみるのではなく、その背景にあるこの「言語に関する問い」から読み解いていく必要があります。

 ここで私たちが思い出すのは、やはりマルクス論として書かれているように見えながら、実は「言語に関する問い」が論じられていた『マルクスその可能性の中心』のことです。あらためて確認しておくと、「マルクスその可能性の中心」が「群像」に掲載されたのが1974年、『日本近代文学の起源』の基本構想ができあがったというイエール大学での明治文学史セミナーが1975年*4、そして1978年に出版された『マルクスその可能性の中心』には本書の原型となる漱石論が収められており、同年夏の「季刊藝術」に「風景の発見」が掲載されています。つまり事実として、この『日本近代文学の起源』と『マルクスその可能性の中心』はまったく同時期に書かれています。

 常識的な目には、明治日本における近代文学の成立過程と『資本論』の価値形態論の間には何の関係もないように見えます。それなのになぜ柄谷は両者を同時期に書いたのか。私の知る限り、この問いに明確に答えた論考はいまだありません。あるとしても、当時、アメリカで流行していた批評理論を適用して、前者で日本文学史を、後者で価値形態論を記号論的に解釈しなおした、という風説的な言明くらいのものでしょう。これはこれで間違いとはいえませんが、しかしこれでは、なぜほかならぬ日本文学と価値形態論でなくてはならなかったのかを説明することができません。実際に2つの作品を読み較べてみればわかりますが、両者は決してひとつの批評的方法の前に仲良く並んでいるわけではありません。そこには一方がもう一方の問いを呼び寄せるという、相互に補完的な関係があります。したがって、『日本近代文学の起源』と『マルクスその可能性の中心』を前後関係や並列関係において理解しようとするのは適切ではない。両者は柄谷の個人史的にも理論的にも同時に成立したものであり、柄谷自身がマルクス論と漱石論を「すこしも区別していない」*5と述べていることもふまえていえば、両者はまさしくひとつの書物なのです。そしてこのひとつの書物のなかで、いっけん無関係な2つの主題が「言語に関する問い」をめぐって相互に絡み合っているのです。

 かくして、今回『日本近代文学の起源』を読解するにあたって、私はそれを『マルクスその可能性の中心』との関係を強く意識しながら読んでいくことにします。後の柄谷の言いまわしを真似て言えば、『日本近代文学の起源』から『マルクスその可能性の中心』を読み、『マルクスその可能性の中心』から『日本近代文学の起源』を読むということです。そして社会構築主義的な近代批判の有効性が失われつつある現在の日本*6において、そのような読みかた以外に、もはや本書の「可能性の中心」はないのです。


日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)

*1:今回は1988年発行の講談社文芸文庫版を参照する

*2:「著者から読者へ、ポール・ド・マンのために」同書、p248。

*3:もっとも、柄谷自身は『日本近代文学の起源』の近代批判を肯定的にとらえたうえで、その文脈からネーション=ステートの成立に関する問題意識へとつながっていったもと述べている。しかし、いずれにせよ、それは言語の問題であることに変わりはない。

*4:「あとがき」同書、p243。

*5:「あとがき」『マルクスその可能性の中心』、p235。

*6:ちなみに、私はかつては(一般的に)有効であった社会構築主義的手法が(一般的に)失効したというような見解を理解することができない。それは有効な場合もあれば無効な場合もあり、有効になったり無効になったりする。それは最近になってそうなったというわけでもなく、はじめからそうだったのである。