柄谷行人を読む(22)『日本近代文学の起源』

 ではこの諸概念の相互関係に注目しながら、前半部の内容を振り返ってみましょう。まず「風景」とは、さしあたって客観的存在物であり外界のことです。さしあたって、というのは、この言葉が指すものに関して多少の混乱があると思われるからですが、詳しくは後で検討します。一方の「内面」とは、この「風景」に対峙するところの主観であり内部のことです。柄谷によれば両者は明治日本の近代化の過程において発見されたのであり、それ以前にはなかったものです。つまりそれらが発見される前は、風景とは過去の文学だったのであり、ひとびとは「素顔」の背景に「内面」をみてとることはなく、形象的な顔(歌舞伎役者のような仮面的な顔)に意味を感じていたのです。それが明治20年代に言文一致が確立されるとともに両者は成立した。すなわち、言文一致によってはじめて、そこにある「風景」、ここにある「内面」が成立したというのです。また言文一致のほかに、私小説における「告白」もまた「内面」を成立させたものであるとされています。

 このように、前半部で述べられている諸概念の関係において重要な役割をもっているのが言文一致です。言文一致について柄谷は、「言を文に一致させることでもなければ、文を言に一致させることでもなく、新たな言=文の創出*1」であると述べています。つまり言文一致において成立した言=文は、話し言葉でも書き言葉でもない、両者のひとつの関係の成立であり、ひとつの言語的な地平なのです。そしてこの言=文は「文字は音声につかえなければならないという思想*2」によって成立したものであり、それが思想であるがゆえに、文学の領域に限らず、絵画、詩歌、演劇においても同時に成立したのです。

さきに、私は言文一致の本質は文字改革であり、いわば「漢字御廃止」にあると述べた。むろん、実際に漢字を廃止するか否かが問題なのではない。問題は、そこにおいて「文」(漢字)の優位が根底的にくつがえされたことであり、またそれが音声的文字の思想によってなされたということである。「文」の優位ということはさまざまなコンテクストで考えることができる。だからまた、一見無関係な相異なる領域で生じた変化は、広い意味で「言文一致」の展開としてみられることができる。
「内面の発見」同書、p61。


 本書では、この言=文の成立の結果として「風景」と「内面」は「発見」されたとされています。ではそれらはどうやって「発見」されたのか。柄谷は両者の成立に関して、繰り返し「認識の布置の変化」、「記号論的な布置の転換」、「超越論的な「場」の転倒」という言葉で説明しています。しかし、実際にそれがいかなるものであるのかについての柄谷の記述ははっきりしません。なぜでしょうか。それは用語の定義が曖昧だからです。たとえば「風景」と「内面」が成立する「記号論的な布置の転換」に関して、次のような記述があります。


引用1

風景がいったん成立すると、その起源は忘れさられる。それは、はじめから外的に存在する客観物のようにみえる。ところが、客観物(オブジェクト)なるものは、むしろ風景のなかで成立したのである。
「風景の発見」同書、p42。

引用2

風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかし、それがたんにそのようなものとして見えるようになるのは視覚の問題ではない。そのためには、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある「場」が転倒されなければならない。そのときはじめて、素顔や素顔としての風景が「意味するもの」となる。それまで無意味と思われたものが意味深くみえはじめる。
「内面の発見」同書、p68。

引用3

モナリザ」には概念としての顔ではなく、素顔がはじめてあらわれた。だからこそ、その素顔は「意味するもの」として内面的な何かを指示してやまないのである。「内面」がそこに表現されたのではなく、突然露出した素顔が「内面」を意味しはじめたのだ。そして、このような転倒は、風景が形象から解放され「純粋の風景」として存在したことと同時であり、同一である。
「内面の発見」同書、p77。


 引用1においては「風景」という用語が、「外的に存在する客観物」にも「客観物(オブジェクト)」を成立させるものについても用いられています。引用2では「概念(意味されるもの)」が「風景」、「意味するもの」が「素顔としての風景」とされており、引用3では「形象から解放され」た「風景」が「純粋の風景」であるとされています。要するに、たんに「風景」といったとき、それが文学作品や風景画における描写(描写するもの)をさしているのか、それが描写している対象としての現実(描写されるもの)   空や木や鳥   を指しているのかがはっきりしないのです。同様のことは「内面」についてもいえます。確かに本書は、描写し、描写されるという関係の成立そのものを論じたものであり、両者に個別の名称を与えることはさほど重要ではなかったかもしれません。しかしこの不明瞭さが、何が「記号論的な布置の転換」であるのかをみえにくくしていることも否定できない事実です。


日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)

*1:「風景の発見」同書、p49。

*2:「内面の発見」同書、p55。