柄谷行人を読む(23)『日本近代文学の起源』

 そこで、この前半部で論じられている「風景」、「内面」および「記号論的な布置」というものをはっきりさせておくことにしましょう。それにはいくつかの段階が必要です。ここでは「内面の発見」の議論にしたがって、「風景」と「内面」が言=文によって成立した、すなわち両者が言語の地平にあるというところからはじめることにします。そして柄谷の用語法に倣って、ソシュールの用語であるシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)という言葉を用いることにしましょう。

 これにより、まず「風景」と「内面」はそれぞれ描写し描写されるものの対として定義されます。つまり「風景」は、文学作品や風景画の描写であるところの「シニフィアンとしての風景」と、「現実」にある空や木や鳥(あるいはそのイメージ)であるところの「シニフィエとしての風景」にわけられます。同様に「内面」も作品中の描写であるところの「シニフィアンとしての内面」と、「現実」の心の内(あるいはそのイメージ)であるところの「シニフィエとしての内面」とにわけられます。こうすると、引用1の「客観物(オブジェクト)」は「シニフィエとしての風景」、引用2の「概念(意味されるもの)」は「風景」とはよばれず、「素顔」は「シニフィアンとしての内面」、「素顔としての風景」は「シニフィアンとしての風景」ということになります。また引用3の「純粋の風景」は「シニフィエとしての風景」ということになるでしょう。こうして「風景」と「内面」の描写し描写されるという関係が明確化されたことになります。

 しかし、もちろんこれだけでは十分に定義したことにはなりません。たんに両者を言語の地平に還元するだけでは「風景」も「内面」もひとつの言葉に過ぎず、例えば「ヒト」や「イヌ」と何らかわりないことになります。そして両者は言語の地平に対等に並んでいることになり、両者の区別は相対的なものでしかないことになるでしょう。しかし柄谷のいう「風景」、「内面」は単なる言葉ではありません。いわば「風景」とは「空」や「木」や「鳥」といった外界的なものに関する言葉の総体を意味するものであり、「内面」とは「自己」や「精神」といった内面的なものに関する言葉の総体を意味するものです。「シニフィアンとしての風景」は「風景のシニフィアン」ではなく、「シニフィエとしての風景」は「風景のシニフィエ」ではないのです*1。この時点で「風景」と「内面」が決して言語の地平に還元されない概念であって、言文一致からのみ成立したものではないことがわかります。

 ここで、柄谷によってこの言=文が「内面」から確立されたものであり、「内面」に属するものであるとされていることに注目しましょう。

日本の近代文学は、国木田独歩においてはじめて書くことの自在さを獲得したといえる。この自在さは、「内面」や「自己表現」というものの自明性と連関している。私はそれを「言文一致」という文字表現(エクリチュール)の問題として考えてきた。あらためていえば、内面が内面として存在するということは、自分自身の声を聞くという現前性が確立するということである。ジャック・デリダの考えでは、それが西洋における音声中心主義であり、その根底には音声的文字(アルファベット)がある。プラトン以来、文字はたんに音声を写すものとしておとしめられてきたのであり、意識にとっての現前性すなわち「音声」の優位こそ西欧の形而上学を特徴づけているというのである。
「内面の発見」同書、p90。


 つまり「内面」が「内面」としてあるのは、「自分自身の声を聞くという現前性が確立するということ」であり、さらにそれは「言」=音声による「文」=文字の支配として言=文が確立されることに等しいというのです。これは、言語の地平の成立と「内面」の成立が等しいということを意味しています。言い換えれば「内面」は言語の地平そのものであり、「シニフィアンとしての内面」と「シニフィエとしての内面」を成立させる言語の地平そのものが「内面」そのものとして成立しているのです。ここには、言語の地平を成立させ、かつそれ自体が言語であるという「内面」の二重性と自律性があるようにみえます。

 それでは「内面」だけが自律的に成立しており、「風景」は言語の地平に一方的に従属しているのでしょうか。むろんそうではありません。むしろ「風景」なしに「内面」は成立しないのであり、そのようなものとして「風景」はあるのです。この両者の関係を示すのが「告白」という制度なのです。柄谷は明治期の没落氏族におけるキリスト教の受容に、日本近代文学の源泉を求めます*2

キリスト教がもたらしたのは、「主人」たることを放棄することによって「主人」(主体)たらんとする逆転である。彼らは主人たることを放棄し、神に完全に服従サブジェクト)することによって「主体(サブジェクト)」を獲得したのである。
「告白という制度」同書、p111。


 そして柄谷は彼らが「告白」を始めたのであり*3、この「告白」によって「告白さるべき内面」は生れたのだといいます*4。つまり神への「告白」は、社会的諸関係=権力を超越してただ「内面」そのものであることであり、そしてこのただ「内面」であることが、社会的諸関係=権力を超えた「主体」であることになるのです。これが「告白」というものに付随する「転倒」です*5。「告白」とは、主観(サブジェクト)である「内面」を、外界において主体(サブジェクト)たらしむるひとつの制度なのです。

 このように「告白」は言=文とは別の枠組みで「風景」と「内面」を規定しています。言=文は「内面」に属しており、「風景」と「内面」をともに描写するものと描写されるもの(シニフィアンシニフィエ)に還元します。一方で「告白」は「内面」を外界における「主体」に転倒させます。ここで外界は直接的には社会的諸関係を意味していますが、同時に「客観物(オブジェクト)」つまり「風景」をさしていると理解するべきです。いわば「告白」とは、「風景」を言語の地平において支配する「内面」を「風景」に送り返すものなのです。このとき、送り返されることではじめてそれが生れるという意味では、「風景」なしに「内面」はありえないのです。

 以上のことから、「風景」と「内面」をめぐって2重の制度があることになります。「内面」とともに成立し、「内面」と「風景」をともにシニフィアンシニフィエに還元する言語(言=文)と、「内面」を外界=「風景」に送り返す「告白」です。言語(言=文)と「告白」のどちらか一方が先にあるわけではなく、両者は同時に成立するものです。そしてこの2つの制度の成立と、「風景」と「内面」の成立もまた同時です。つまり「風景」、「内面」、言文一致、「告白」は個々に定義可能なものではなく、これらの「相互的な連関」のなかでのみ定義されるものなのです。そしてこれが、柄谷が明確に述べることができなかった「記号論的な布置(の転換)」なのです。


日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)

*1:あくまでソシュール言語学に忠実に従うなら、そもそも「シニフィアンとしての風景」という言い方をするべきではないだろう。あるいはそういう使い方をするなら、それは「シニフィアン」をメタファーとして用いているというべきである。ここでは本書における柄谷の用語法(素顔としての風景が「意味するもの」となる)を踏まえてこのような使い方をした。

*2:「告白という制度」同書、p107。

*3:同、p112。

*4:同、p97。

*5:同、p113。