柄谷行人を読む(26)『日本近代文学の起源』

 ここまで『日本近代文学の起源』の内容をひととおり読んできました。まとめると、前半部では言文一致と「告白」という制度によって成立する「風景」と「内面」が、中盤部では政治的制度=社会的諸関係によって規定される人間科学が、後半部では「深層」としての歴史を見出す自身の作業の批判が論じられていました。こうみると、本書が単なる社会構築主義の試みに還元されるものでないことは明らかでしょう。本書は、近代という制度を構成する諸概念の相互連関を明らかにするとともに、その連関を見出す作業そのものをも批判的に検討するものなのです。その意味では、柄谷自身も言うように、本書は「文学史」を批判するために文学史的資料を用いているだけであって*1、もはや「文学」とも「文学史」とも関係がないのです。ここではそのような観点から、文学的な用語を排して、もう一度本書の議論を形式的に構成しなおしてみることにしましょう。


 まず前半部では、近代の制度=「記号論的な布置」として、言=文(言語)と「告白」という2つの制度と「風景」と「内面」の相互連関が論じられています。ここで「内面」は言語の地平そのものであるとともに、「告白」によって外界における主体に送り返されるものとしてあります。しかし「記号論的な布置」には、外界、つまり人間と物質の諸関係としての社会はありません。それらは認識の対象として世界に還元されています。それが「風景」です。言い換えれば、社会の問いが「風景」という世界に還元されているのです。このとき「風景」に対する「内面」が、世界に対する意識であることになります。つまり「記号論的な布置」においては、意識と世界という実存の問いに、人間と物質という社会の問いが還元されているのです。

 そして言=文において、意識も世界=「風景」もともに言語の地平に還元されます。しかし、言語は意識=「内面」に属するものであり、意識そのものです。つまり言語とは意識=「内面」と世界=「風景」の対立を意識=「内面」に還元するものであり、逆に言えば意識と世界を意識に還元するところに成立するのが言語なのです。したがって「記号論的な布置」というものは、社会の問いを世界に還元し、世界を意識に還元したところに成立するものであり、その結果として言語が成立するのです。

 続く中盤部では、政治的制度=社会的諸関係に規定される人間科学が論じられています。人間科学は、人間と物質のもろもろの関係を現象として認識する地平に成立するものであり、そこでは社会の問いが世界に還元されています。その意味では、人間科学とは、社会の問いが還元された実存の問いであり、「記号論的な布置」のうえに成立するものです。しかしこの「記号論的な布置」そのものが、すでに現実的な人間と物質の関係(具体的な政治的制度=社会的諸関係)に規定されているのです。これは理論としての実存の問いが、現実としての社会に規定されているということです。

 最後に後半部で、近代の制度という「深層」を見出す自らの作業が、結局は近代の制度のうちにあるという自己批判がなされています。つまり「実存の問いを規定する社会」という柄谷自身の視点が、そのまま社会に規定された実存の問いなのです。このとき柄谷の実存社会が一致することになります。


 以上より、本書の議論の形式的な構図をまとめるとこうなります。まず人間と物質の関係が世界に還元され、次に意識と世界の関係が意識に還元されます。その結果、すべてが意識=言語に還元され、近代の制度=「記号論的な布置」が成立します。この近代の制度は現実的な人間と物質の関係である社会によって規定されています。しかし、近代の制度と社会の関係は、それ自体、近代の制度のなかにあります。つまり近代の制度と社会の関係を見出す柄谷行人実存が、すでにその関係のなかにあることになり、ここに社会実存が一致するのです*2


日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)

*1:「あとがき」同書、p243。

*2:端的に、言語が「内面」に属するとされていることから、言語が実存に規定され、それが社会に規定されているとみることはできる。しかし、これだけでは実存社会は一致しない。それが一致するには、やはり自己批判という契機がなければならない。