柄谷行人を読む(27)『日本近代文学の起源』

 すでにあきらかと思われますが、最初にも述べたように、本書の議論の構図は『マルクスその可能性の中心』と完全な対称関係にあります。もう一度確認しておくと、『マルクスその可能性の中心』の構図では、まず実存の問いが人間に還元され、人間が物質に還元されるところに貨幣が生じます。そして、これを規定する社会実存と結び付けられていました。これに対して本書では、社会の問いが世界に還元され、世界が意識に還元されるところに言語が生じます。そして、それを規定する実存社会と結び付けられるのです。くわえて両者の議論には、ともに自己批判という契機が含まれていることも重要です。比較のためにまとめると、次のようになります。


マルクスその可能性の中心』

  • 理論的な問いを還元するもの: 唯物論
  • 理論的な問いの還元:      実存の問い→社会の問い
  • 還元の結果として生ずるもの: 貨幣
  • 現実の接合:            社会の問いを規定する社会実存
  • 自己批判の構図:         マルクス唯物論カール・マルクスが批判する

日本近代文学の起源

  • 理論的な問いを還元するもの: 近代の制度
  • 理論的な問いの還元:      社会の問い→実存の問い
  • 還元の結果として生ずるもの: 言語
  • 現実の接合:            実存の問いを規定する実存社会
  • 自己批判の構図:         『日本近代文学の起源』を柄谷が批判する


 このように、両者は実存と社会の問いと実存社会の関係において、いわば鏡像関係にあります。両者の構図の相違は、実存と社会のどちらに理論と現実をあてはめるかの違いに基づくものです。つまり『マルクスその可能性の中心』では社会の問いという理論が実存という現実に規定されており、『日本近代文学の起源』では実存の問いという理論が社会という現実に規定されているのです。

 では、なぜ両者はこのような対称性をなさなくてはならないのでしょうか。その謎を解く鍵が「言語に関する問い」にあります。これについて、私は今回の読解の最初に、両者が「言語に関する問い」を共有していることを述べました。すでに明らかなように、その共有は、前者の結論部で言語の問題が論じられており、後者の前半部で「内面」と言=文の関係が論じられているという程度の皮相的なものではありません。また両者は決して「言語に関する問い」から始まったのでもありません。それは、いわば、ひとつの問いが2つの経路を経て、新たなひとつの問い(言語に関する問い)に到達したとみるべきものなのです。

 繰り返し述べるように、前期柄谷の問題意識は、実存の問いと社会の問いの対立から始まります。そして柄谷は『意味という病』において、両者の対立が実際には理論と現実の隔たりに基づくという認識に到達します。そうである以上、実存の問いと社会の問いの対立を解消するには、まず理論と現実の隔たりを解消しなくてはなりません。そこで『マルクスその可能性の中心』では、理論としての社会の問い(唯物論、貨幣)を現実の社会に規定させ、それを見出す視点を実存と結合させることで、『日本近代文学の起源』では、理論としての実存の問い(近代の制度、言語)を現実の実存に規定させ、それを見出す視点を社会と結合させることで、理論と現実の重ねあわせをはかったのです。このとき、前者には「現実(社会)→理論(社会)…現実(実存)=現実(社会)→理論(社会)」、後者には「現実(実存)→理論(実存)…現実(社会)=現実(実存)→理論(実存)」という、現実と理論のたえまない反転があることになります。この反転を「理論(社会)…現実(実存)」あるいは「理論(実存)…現実(社会)」においてみるかぎりにおいて、それは自らが自らを規定する、いわば自己規定のサイクルであることになります。そしてこのサイクルの地平をなしているのが言語なのです。つまり、ここで言語は理論と現実の隔たりを解消する可能性として見出されるのです。

 ではなぜ、理論と現実の隔たりを解消する可能性が、言語の地平に求められるのでしょうか。それは言語が、それ自体として理論を記述するものでありながら現実的存在であり、実践としてありながら抽象的なものだからです。言語だけが理論かつ現実でありうるのです。だからこそ『マルクスその可能性の中心』と『日本近代文学の起源』は、ともに理論と現実の隔たりを解消すべく理論と現実を重ね合わせ、その結果として言語の地平に2つの自己批判=自己規定のサイクルを描いてしまったのです*1。しかし、結局のところ、両者において理論と現実の隔たりは解消されてはいません。それは端的に両者の描くサイクルが異なる=一致していないというところに示されています。そこでは理論と現実が重ねあわされただけで、言語と一致していないのです*2。したがって、その隔たりを解消するには、言語そのものにおいて理論と現実を問わなくてはならないことになります。ほどなく柄谷が言語そのもの、およびその自己規定について問うことになるのは、もはや必然の流れなのです。


日本近代文学の起源』の読解のポイント
(1) 社会の問いが世界に還元され、世界が意識に還元されるところに言語が成立する。
(2) 言語は意識に属するとともに、社会的諸関係に規定されている。
(3) 『日本近代文学の起源』を柄谷自身が自己批判するという構図が成立している。
(4) 『マルクスその可能性の中心』と対称的な議論の構図をなしている。


 次回は、『内省と遡行』と『隠喩としての建築』です。


日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)

*1:本草稿は<批評>であり、書いた当人の意図は一切問題にしない。したがって柄谷が『マルクスその可能性の中心』と『日本近代文学の起源』を意図して相補的に書いたとみるのは正しくない。それはあくまでも結果として相補的になったのであり、結果として言語に到達したのである。

*2:つまり「理論(社会)…現実(実存)」あるいは「理論(実存)…現実(社会)」の自己規定は、あくまで理論と現実の相互規定であって言語の自己規定ではないということ。