柄谷行人を読む(31)『内省と遡行』『隠喩としての建築』

 それでは「形式化」期の4つの論稿をひとつひとつ読み解いていくことにしましょう。ただし、すでに述べたように、「形式化」期全体を通じて同じ事柄が何度も繰り返し論じられているので、ここでは各論稿の全体像を把握することに主眼をおきます。それにともなって「要約」は重要部分の抜粋のみとなることを断っておきます。

 最初は「内省と遡行」です。この論稿は、1980年1月から7月まで雑誌「現代思想」に連載されたものです。


要約:「内省と遡行」
序説

  • 現象学は内省の徹底化であり、内省の反転としての遡行をはらんでいる。

第一章 主知性のパラドックス

  • 構造主義は主体をとりのぞいたというが、超越論的な主観性に依拠している。
  • ソシュールは言語に階層構造をみとめず、言語には差異しかないという。このとき、この差異は、現象学的−構造論的な構えをくつがえすものとしてある。

第二章 下向と上向

  • 構造主義的な「発生」論では、意味のない下位構造の排除的結合の結果として、上位における積極的意味がある。しかし、もともと下位構造はその意味を構造論的に還元することで見出されたものである。
  • この循環論的困難はヘーゲルにおいて解決される。
  • この困難を回避しようとするとき、構造を理論的契機とするか、下向の終わりに超越論的な構造を見出す方法がある。しかし、両者とも上向の困難を回避し、超越論的なものに依拠している。
  • これに対してソシュールの構造は構造的多様体であり、ネガティヴに提示されるほかない。

第三章 知の遠近法

  • われわれに深層を感じさせるのは、遠近法的配置である。
  • 19世紀において奥行の遠近法から深さの遠近法への変容があった。そこにおいて、共時的階層と通時的階層が相互に変換しうる地平が成立する。
  • 深層をポジティヴにみとめるかぎり、つまり、上位‐下位の階層において考える限り、ヘーゲルをこえない。

第四章 時と場所

  • 近代遠近法はアリストテレスの場所(トポス)と時(クロノス)を覆い隠す。
  • アリストテレスの場所は、事物の配置とともに生じる境界性あるいは差異性である。そして時は場所的である。
  • ソシュールにとって重要なのは、ラングの境界性・差異性としての時であり場所である。

第五章 作品とテクスト

  • 作品とテクストを区別する必要がある。作品が解体されたところにテクストがある。われわれがテクストを見ようとするとそれは作品となる。
  • 重要なことは作品を解体することであり、テクストを作品たらしめている中心化・一義性をとりはらうことである。
  • しかし、われわれは決してポジティヴにテクストそのものをみることはできない。


 議論を追ってみましょう。まず最初に、内省と遡行の関係が述べられます。内省とは対象を意識に還元する作業のことであり、遡行とは対象の起源や根拠を問う作業のことです。このとき、遡行は内省のなかにあって、かつ内省の拒絶(反転)としてあるものであるとされます。これは、対象の成立に関する問いは内省から始まるしかないが、そこからの反転がなければ対象は成立しえない(問いが成立しない)ということです。こうした認識をもとに、ソシュール言語学が論じられます。

 ソシュール言語学フッサール現象学と同様に内省の試みです。ソシュール言語学においては、言語には差異しかありません。一方、ソシュールの試みを現象学的に推し進めたヤコブソンは、言述‐文‐語‐音韻という階層構造を見出します。この階層構造において、下位構造は上位構造を判別するために見出される差異です。つまり音韻にも語にも差異があり、かつ音韻の差異と語の差異は同じではないのです。なぜソシュールは階層構造を見出さず、すべては等しく差異であるというのでしょうか。それは、ヤコブソンが言語の意味を還元したのちに、再び意味を構成する視点から差異をとらえているのに対して、ソシュールは意味を再構成する視点を拒絶しているからです。ヤコブソンはソシュールが十分に現象学的ではないと批判しますが、柄谷はそれを否定します。ソシュールには現象学的‐構造論的な構えを覆す態度があるのです。

 続いて、このヤコブソンとソシュールの相違が下向と上向の関係から捉えなおされます。下向とは意識や対象を成立させているものを見出す過程であり、上向とは下向の果てに再び意識や対象へと戻る過程です。端的に言えば、遡行をそのなかに含む内省が下向であり、その反転が上向です。たとえば、目の前にリンゴがあるとしましょう。このとき、意識のなかのリンゴという概念や対象のリンゴの実在がどのようにして構成されているのかを明らかにしようとするのが下向です。対して、この問いによって見出されたものを、再びリンゴの概念や実在に向かって展開していくのが上向です。

 ヘーゲルにおいては下向と上向が一致しています。つまり、下向によって見出されたリンゴの本質を再展開すれば、元のリンゴの概念や実在が完全に復元されるのです。一方、構造主義においては、リンゴの概念や実在ははじめからありません。その対象はリンゴのあらわれの関係(意味)だけであり、その下向の終わりに構造が見出されます。確かにこの構造は、ヘーゲルの場合とは違って概念や実在を復元するものではありません。しかし、対象の意味がなんらかのかたちで復元されるという意味では、やはり構造主義においても下向と上向は一致しています。これに対してソシュールの構造は、同じように下向によって見出されるのですが、上向によって対象の意味を復元するものではないのです。

 では、ソシュールの見出したものとは何なのでしょうか。柄谷は、それは近代遠近法が覆い隠すアリストテレスの「場所」と「時」と同じものだといいます。アリストテレスのいう「場所」とは、事物の配置とともに生じる差異性のことで、「時」もまた「場所」的なものとされます。しかし、それらは遠近法の時間と空間によって覆い隠されています。遠近法的な視点にもとづく構造主義に対して、ソシュールの見出したものは「場所」であり「時」であって、差異性そのものなのです。

 最後に、差異性を覆い隠す構造という問題が、作品の問題に変換されます。作品とは人間の目的に関係するものであり、人間の制作するものです。これに対して、テクストは作品が解体されたところにあります。つまりテクストとは、構造に対する差異性のことです。このテクストを見出すには作品を解体する必要があります。しかしテクストそのものを、作品を介することなしに見ることはできません。テクスト=差異性は、作品=構造の否定としてネガティヴに示されるしかないのです。


 このように「内省と遡行」では、意識と対象の成立に関する問いが、意識と対象の違いすら還元してしまうひとつの過程に還元されます。そして同じように還元の果てに見出されるものでありながら、還元前のものを復元する構造に対して、決して還元前のものに復元されない差異性が指摘されます。こうして議論の焦点が、構造と差異性の関係に絞られたことになります。そして本論稿以降、この両者の関係が微妙に変化していくことになるのです。


内省と遡行 (講談社学術文庫)