柄谷行人を読む(30)『内省と遡行』『隠喩としての建築』

 今回の読解は『内省と遡行』と『隠喩としての建築』です*1。これまでと違って今回は同時に2冊を読むことになりますが、それには理由があります。

 両者は出版年だけを比較すれば、『内省と遡行』が1985年、『隠喩としての建築』が1983年ですから、単行本としては後者のほうが先に世に出たことになります。しかし両者に収められている論稿の前後関係はいささか複雑です。『内省と遡行』は「内省と遡行」、「言語・数・貨幣」、「転回のための八章」の3つから構成されていますが、このうちの「内省と遡行」は1980年に雑誌「現代思想」に連載されたもので、1981年に「群像」に連載された「隠喩としての建築」(『隠喩としての建築』)よりも先に書かれています。また「転回のための八章」は「探究」の抄録であり、実際には<切断I>の後に書かれたものです。さらにいえば、『内省と遡行』が出版された1985年には『批評とポスト・モダン』が出版されていますが、柄谷はこれと『隠喩としての建築』に収められた論稿をあわせて、1996年に『差異としての場所』と題して講談社学術文庫から出版し、また1995年には「この時期」の作品および後の『探究I』、『探究II』までを含めて、The MIT Pressから"Architecture As Metaphor: Language, Number, Money"が出版されています。

 このように、1980年の『日本近代文学の起源』から1986年の『探究I』の間、あるいは<切断I>の直前に相当する時期に書かれた論稿群を単行本の単位で扱うことは困難であり、むしろ単行本化される以前の雑誌連載の単位で捉えるほうが好都合といえるでしょう。では具体的にはどの論稿を読解の対象とするべきでしょうか。柄谷は『内省と遡行』のあとがきで次のように記しています。

 私は本書を、私の理論的仕事を丹念にフォローしてくれるかも知れない読者のために出版しようと思った。参考までに、本書に収録された二論文がどのような軌跡の上にあるかを示してみる。

(1) 「マルクスその可能性の中心」一九七四年「群像」連載。未刊行。
(2) “Interpreting Capital”一九七六年。未発表。
(3) 「貨幣の形而上学」一九七七年「現代思想」連載。未刊行。
(4) 『マルクスその可能性の中心』一九七八年。(1)を大幅に改稿して講談社から出版。
(5) 「手帖」一九七九年「カイエ」連載。未刊行。
(6) 「内省と遡行」一九八〇年「現代思想」連載。
(7) 「隠喩としての建築」一九八一年「群像」連載。―一九八三年『隠喩としての建築』講談社から出版。
(8) 「形式化の諸問題」一九八一年「現代思想」連載―同右。
(9) 「言語・数・貨幣」一九八三年「海」連載(未完)。
(10) 「探究」一九八五年〜「群像」連載。
「あとがき」『内省と遡行』、p313。


 これらのうち一般に入手可能なものは、『マルクスその可能性の中心』、「内省と遡行」(『内省と遡行』)、「隠喩としての建築」(『隠喩としての建築』)、「形式化の諸問題」(『隠喩としての建築』)、「言語・数・貨幣」(『内省と遡行』)そして「探究」(『探究I』)です。このうち『マルクスその可能性の中心』はすでに読解しており、「探究」は<切断I>の後に分類されるものです。したがって、今回、私たちが読むべきものは、それ以外の4つの論稿   「内省と遡行」、「隠喩としての建築」、「形式化の諸問題」、「言語・数・貨幣」   ということになります。本草稿では、この4つの論稿およびそれらが書かれた時期のことを、「形式化の諸問題」のタイトルから「形式化」期とよぶことにします。

 この「形式化」期の論稿には、いくつかのはっきりした共通点があります。まず、柄谷自身がそれらの内容に満足しておらず、積極的に出版したものではないと強調していることです。『隠喩としての建築』は「出版するつもりのなかったもの*2」であり、『内省と遡行』は書き終えることが許されなかった「未完の論文」*3であるといいます。しかし、それらは決して乱雑で不完全な論稿の寄せ集めというわけではありません。そこにはひとつの明確なテーマがあります。

私はいつも今度こそ決着をつけようと思って、それらの仕事に取りくんだ。しかし、書いているさなかに、決定的な疑問が生じ、とりあえず書きおえたころには、倦き倦きし且つうちひしがれていたのである。……私はそれらを改稿するかわりに、次の仕事を試みてきた。その都度が、私にとっては“切断”であり、私は後をふりむかなかった。結果的に、その都度、仕事の領域は一般化し、より抽象化していった。
同、p314。


 では、何に決着をつけようとしていたのでしょうか。柄谷自身はこう述べています。

「内省と遡行」において、はじめて真正面から言語について考えはじめたとき、私はいわば《内部》に閉じこめられた。というより、ひとがどう考えていようと、すでに《内部》に閉じこめられているのだということを見出したのである。一義的に閉じられた構造すなわち《内部》から、ニーチェのいう「巨大な多様性」としての《外部》、事実性としての《外部》、いいかえれば不在としての《外部》に出ようとすること、それは容易なことではなかった。それは、内部すなわち形式体系をより徹底化することで自壊させるということによってしかありえない、と私は考えた。
同、p315。


 つまり柄谷の弁に従えば、この「形式化」期は、内部の形式体系を徹底化することで自壊させ外部に出る試みであったが、その結果に満足できず、同じ問いを繰り返しているうちに、いくつかの未完成な論稿だけが残った、ということになるでしょう*4。確かにこの時期の論稿を読むと、同じテーマの同じような考察が繰り返し出てきます。たとえば、ソシュールヤコブソンの言語学の相違、ソシュールフッサールの近接、ラッセルの論理主義とゲーデル不完全性定理、ベートソンのダブルバインド、アレグザンダーのセミ・ラティスなどなどです。そしてこれらは繰り返し論じられる過程で、相互の結びつきが少しずつ微妙に変化していきます。しかし「言語・数・貨幣」の最後に至っても、何か結論らしい結論が示されるわけではありません。そうした意味では、柄谷の自己認識もあながち間違いとはいえないでしょう。

 しかしその自己認識を信用して、柄谷は内部を自壊させることで外部へ出ようと試みたが挫折に終った、と解釈してしまうのは拙速であり、何も読んでいないのと同じことです。第一に、それは「形式化」期の過程で生じた変化を見落としており、その問いの方向性を見定めることができていません。第二に、それが挫折に終ったとしてしまうことで、あたかも柄谷がこの試みを実践したが挫折した、というありもしない物語を作り出してしまっています。後に詳しく議論することになりますが、あらかじめ述べておけば、柄谷は確かに上記の試みを問うてはいますが、一度としてそれをみずから試みてはいません。試みてもいないのだから、挫折のしようがないのです。


 以上より今回の読解では、「形式化」期の諸論稿をひとつひとつ検討することで、これまでほとんど省みられることのなかった、この時期の微妙な変化に注目します。同時に、柄谷の試みが本当に「一義的に閉じられた構造すなわち《内部》から、ニーチェのいう「巨大な多様性」としての《外部》、事実性としての《外部》、いいかえれば不在としての《外部》に出ようとすること」だったのかどうかを検討することにします。もちろん、それはこれまでの『マルクスその可能性の中心』、『日本近代文学の起源』との連続性を明らかにし、続く<切断I>を説明するものとなるはずです。本草稿こそ、かつて柄谷が期待しながら、いまだかつて存在しなかった「私の理論的仕事を丹念にフォローしてくれるかも知れない読者」による読解であることを宣言しておきましょう。


隠喩としての建築 (講談社学術文庫)
差異としての場所 (講談社学術文庫)
内省と遡行 (講談社学術文庫)

*1:ともに講談社学術文庫版を参照する。本文中にも述べたように、後者は『差異としての場所』(講談社学術文庫)にも収められている。

*2:「あとがき」『隠喩としての建築』、p319。

*3:「あとがき」『内省と遡行』、p316。

*4:浅田彰は、この柄谷の試みについて「驚くべき敗北の記録」とよんでこう述べている。「行程は難渋をきわめ、一気に進展したかと思うと、すぐにまた停滞する。少しずつニュアンスを変えながら、同じことが何度も何度も繰り返される。脱出路が見えたと思ったら、やがてまた放棄される。こうして敗走を重ねながら、著者は絶えず新たな地点に立って攻撃を再開するのだ。」「戦争の記録」『内省と遡行』、p322。