柄谷行人を読む(33)『内省と遡行』『隠喩としての建築』

要約:「言語・数・貨幣」

序章 基礎論

  • 形式化は第一に自然・知覚・指示対象から乖離することで人工的・自律的な世界を構築しようとすることであり、第二に、指示対象・意味・文脈を括弧にいれて、意味のない任意の記号の関係の体系と一定の変形規則をみようとすることである。
  • 外部性があるとすれば、形式体系の内部における自己矛盾としてのみあらわれる。

第一章 形式化と現象学的還元

  • 形式化においては、なんらかのかたちで形式体系内部の自立性をめぐって、あるいは外部性をめぐってパラドックスが見出される。
  • 言語とはもともと言語についての言語である。言語はたんなる差異体系ではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの差異体系である。
  • 自然とは自己言及的な形式体系であり、その自己言及性の禁止によってはじめて文化が自立しうる。

第二章 代数的構造――ゼロと超越

  • 形式体系は、ニーチェが言う巨大な多様性の禁止の下にある。それは現象学の閉域にある。巨大な多様性に到達するには、それを突きぬけなければならない。
  • われわれは自己言及的な形式体系から出発する。それは論理的要請である。
  • 過剰を不可避的に生み出すのは、所与でも外部でもなく、自己言及的な形式体系である。
  • マルクスは拡大された価値形態から一般的価値形式が論理的必然として出現するかのように言う。しかし、それによって完成された世界こそ、多様体を中心化することによって得られたものである。
  • 一般的等価物の出現において、貨幣は商品に対してメタレベルにたつが、しかし、貨幣もまた商品としてオブジェクトレベルにある。この不均衡が資本主義の成長の不可避性をもたらす。

第三章 順序構造

  • 分業とは差異化であり、交通とは横断的結合である。
  • マルクスの言う自然成長性は「分業と交通」という視点と結びついている。自然成長性は、たえまなく自己差異化していく差異体系のありようである。
  • 矛盾とは自然成長的な差異化をひとつの体系に閉じ込め、単純化したものである。しかし矛盾があたかも原動力のようにみなされ、力が消去され、偽の生成が仮構される。
  • 自然/人工、自然成長性/計画性という二項対立のなかで形成されている議論は、システムにもとづいており、どんなに対立したとしても同じ位相に属する。
  • 自然成長性としての自然は、数学的な構造によってはとらえられない。それはそのような形式体系がぎりぎりのところで追いやられるパラドックスにおいてのみ、つまりネガティヴにのみ示される。


 「言語・数・貨幣」は、1983年4月から10月まで雑誌「海」に連載されました。本論稿では、柄谷自身が「この十年間の仕事の総決算となるべきものであった*1」というように、『マルクスその可能性の中心』から「形式化の諸問題」までの議論が、改めてひとつの視点のもとに整理され、再検討されています。その視点とは、すでに「形式化の諸問題」において採用されていたものであり、形式化の徹底によって自己言及的な体系が見出され、形式体系が解体されるというものです。しかし、「形式化」期に共通する特徴として、本論稿においても議論が進むにしたがってその視点が微妙に変化してきます。

 まず序章では、「形式化の諸問題」と同様に、最初に形式化と形式体系の関係が示され、近代遠近法の成立とゲーデル不完全性定理が論じられます。そして形式化によって取り出された形式体系が、逆説的に形式化しえないものを示すとされます。このとき外部性は、形式体系の内部における自己矛盾としてのみ現れるものです。

 続く第一章では、「内省と遡行」と同様に、フッサール現象学ソシュール言語学が論じられます。両者はともに形式化の試みであるとされ、その結果として自己言及的な体系、あるいは自己差異的な差異体系が見出されたとされます。その自己言及性が禁止されるところに、形式体系=形而上学は成立するのです。そしてこの議論は、そのままハイデガー存在論的差異(存在者と存在の差異)とその隠蔽、デリダ差延とその隠蔽と同じであるとされます。基本的にここまでは、「形式化の諸問題」の議論を踏襲したものといっていいでしょう。

 しかし、第二章から明らかに様相が異なってきます。本章の最初で柄谷は、形式体系は「巨大な多様性」の禁止の下にあり、それに到達するには、形式体系を突きぬけなければならない*2といいます。これは微妙ですが、明らかな変化です。つまり、前章までは外部性は形式体系の内部の自己矛盾としてのみあるとされていたのが、形式体系を捨て去ったところに外部=多様性がある可能性が示唆されているのです。この変化は「われわれが「自己言及的な形式体系」から出発するのは、それが起源的だからではなくて、論理的要請によってである*3」という記述にもあらわれています。これは「自己言及的な形式体系」はあくまでも手段であって、目的は別のところにあることを意味しています。つまり、これまでは形式体系を「自己言及的な形式体系」(自己差異的な差異体系)に導くことが目的であったはずが、それを超えて「自己言及的な形式体系」の外に何かがある可能性が想定されているのです。

 しかし、形式体系の内部にとどまる限りにおいて見出される「自己言及的な形式体系」に、「自己言及的な形式体系」の外部にある何かを見出す可能性はありません。それははじめから外部の可能性を絶つことで成り立っているからです。もし、はじめから「自己言及的な形式体系」の外部を想定するのであれば、外部を絶って「「自己言及的な形式体系」から出発する」必然性はないでしょう。はじめからその想定される外部を示せばよいだけのことです。それでも後者を選択せず、あくまでも「自己言及的な形式体系」にとどまろうとする柄谷は、「自己言及的な形式体系」そのものに「自己言及的な形式体系」の外部の性質を付与する可能性を模索しはじめます。

 私たちは以下のような記述の動揺に、この困難との格闘を見て取らなくてはなりません。


引用1

自然言語はたんに差異的体系なのではなく、自己差異的な差異体系である。それは、言語がいつもすでに言語についての言語であるというのと同じことである。それは対象言語とメタ言語という区別で片づくことがらではない。むしろそれは、そのような地と図の区別が反転してしまわざるをえないような決定不能性につきまとわれている。
「言語・数・貨幣」『内省と遡行』、p200。


引用2

バルトは、自己差異的な差異体系、つまりたえまなく横断的に交叉し拡散する連鎖的な多様体を、閉じることによって根拠をもつのではなく、それをそのまま肯定するようなヴィジョンについて、あるいは、意味が固定的に定着してしまう瞬間をたえず廃棄して行くような思考の可能性について、告げたいのだといってよい。
同、p214。


引用3

自然成長性は「分業と交通」という視点と結びついている。この場合の「自然」は歴史や文化や形式に対立するものなのではない。それはものごとを差異(関係)としてみる形式的な視点からこそ見出される。われわれの言葉でいえば、自然成長性は、たえまなく自己差異化して行く差異体系のありようにほかならない。
同、p255。


引用4

自然成長性としての自然は、数学的(形式的)な構造によってはとらえられない。それは、そのような形式体系がぎりぎりのところで追いやられるパラドックスにおいてのみ、つまりネガティヴにのみ示されるだけである。
同、p283。


 引用1では、自己差異的な差異体系(自己言及的な形式体系)は、自己言及が成立するサイクルそのものですが、引用2では自己言及性、つまり形式体系の内部性は放棄され、外部的な多様性という性質が与えられています。引用3でも、自己差異的な差異体系は、自然成長性という差異性と横断性からなる形式体系の内部性と対立する概念と等置されていますが、引用4   これは本論稿の最後の文章ですが   では、その自然成長性が再び形式体系の自己言及性に差し戻されています。結局、この論稿はここで終ってしまいます。

 これは柄谷が、(1)形式化を徹底することで見出される自己言及的な形式体系(自己差異的な差異体系)を、形式体系を解体するものであるとともに、形式体系がそこから生れる条件であるとしてとらえる(自己言及的な形式体系を肯定的にとらえる)のか、(2)自己言及的な形式体系を見出すことで、形式体系を自己言及的な形式体系そのものまで含めて破棄し、その外部に想定される何か多様体のようなものに到達することを目指す(自己言及的な形式体系を否定的にとらえる)のか、という問いに結論をつけることができなかったことを意味しています。しかし、はじめから外部を絶ったところに成立する自己言及的な形式体系から始める限り、自己言及的な形式体系にとどまるほかなく、肯定するか否定するかという選択肢も生じないはずです。つまり、柄谷は(1)と(2)を揺れ動いている時点で、自己言及的な形式体系から始めてはいないのです。


内省と遡行 (講談社学術文庫)

*1:「あとがき」『内省と遡行』、p316。

*2:「言語・数・貨幣」『内省と遡行』、p191。

*3:同、p196。