柄谷行人を読む(34)『内省と遡行』『隠喩としての建築』

 以上で「形式化」期の4つの論稿は終わりです。あらためて、その議論を振り返ってみましょう。

 まず「内省と遡行」で、意識と対象の成立を問うことが、下向というひとつの過程に還元されます。そして下向に対して、下向の果てに再び意識と対象に戻る過程が上向とよばれます。このとき構造と差異性が区別されます。両者は同じく下向によって見出されますが、構造が上向によって下向前のものと一致するのに対して、差異性は一致しません。差異性とは、構造の解体を通してネガティヴに示されるしかないものです。

 続いて「隠喩としての建築」前半部で、下向と上向が、下向前のものと上向後のもの(意識と対象)から切り離され、建築とよばれます。そして後半部では、建築が形式化、形式化の結果として見出されるものが形式体系とよばれます。形式化とは下向と上向をなしていた過程そのものであり、形式体系とは下向と上向の前後を問わず過程の対象をなすものといえるでしょう。そして形式化の徹底によって自己言及的な形式体系が見出され、これによって一元的な形式体系は解体さるとされます。このとき、一元的な形式体系とは形而上学のことを意味しています。

 そして「形式化の諸問題」で、一元的な形式体系は、自己言及的な形式体系によって解体されるものであり、一方で、その自己言及性が禁止されるところに成立するものであるとされます。そして「言語・数・貨幣」で、この一元的な形式体系と自己言及的な形式体系の関係が再度問い直されます。しかしそれは、形式化の徹底によって、一元的な形式体系を自己言及的な形式体系に導くことを目指すのか、それとも形式化の徹底によって自己言及的な形式体系そのものを破棄し、その外部を見出すことを目指すのかで方針が定まらず、結論に至らぬまま論は終るのです。


 こうみるとわかるように、この「形式化」期の論点じたいは、それほど複雑ではありません。むしろ『マルクスその可能性の中心』などに比べると、抽象度が高いだけに、議論の要点を把握することは容易です。しかし、なぜこのような問いが問われ、最後に議論が動揺し、結局、そのまま終わってしまったのかを理解するには、やはりそこに至るまでの経緯をおさえておく必要があります。簡単におさらいしておきましょう。『畏怖する人間』において実存と社会の対立という問いをたてた柄谷は、『意味という病』において、この対立が実は理論と現実の隔たりに基づくことを見出します。そして『マルクスその可能性の中心』と『日本近代文学の起源』で、理論と現実の隔たりを解消することを試みます。しかし、そこではあくまでも理論と現実が重ね合わされただけで、両者は一致していません。そこで理論と現実を一致させる可能性として見出されたのが言明です。これが「形式化」期のスタートラインです。

 したがって「形式化」期の課題は、言明において理論と現実を一致させることにあります。柄谷はそのために2つのステップを採用しています。最初のステップが、形式化の言明への還元です。最初に述べたように「形式化」期の論稿では、延々と「形式化について」論じられていますが、一度として形式化そのものは行われません。ともすると柄谷は、先行する哲学者、数学者、自然科学者、文学者らの形式化を記した著作を読んであれこれ論評しているだけのようにもみえます。しかし、諸々の形式化を等しく「形式化」として並列的に論ずることは、それらが同一の地平においてなされていることを示す作業をなしています。そしてその地平が言明にほかなりません。つまり、柄谷は「形式化について」論ずる言明を記し続けることで、形式化を言明に還元しているのです。

 そして次のステップが形式化による自己言及性の提示です。すでにみたように、「形式化」期では、内省と遡行が下向と上向に言い換えられ、さらに形式化として統一されます。これによって実存の問い(内省)と社会の問い(遡行)がひとつの問いに統一され、「実存と社会の問い」という理論と「実存社会」という現実の問題が、実存と社会の区別から離れて、理論と現実の隔たりだけの問題となります。一方で形式体系とは、下向と上向の前後を問わず形式化の対象となるものです。したがって、形式化の徹底においてある形式化の対象は、形式化されるものと、形式化された結果の一致としてあるほかありません。これが自己言及的な形式体系です。

 そしてこの自己言及的な形式体系は確かに可能なのです。それが可能であることは、ゲーデル不完全性定理デリダ脱構築などを例証として示されます。ここでもやはり柄谷は、彼らの議論を論じるだけで、柄谷自身が自己言及的な形式体系そのものを示すわけではありません。しかし、ここではそれで十分なのです。なぜなら、柄谷は最初のステップですでに形式化を言明に還元しているのであり、ある形式化が自己言及的な形式体系を可能にするのであれば、それは権利上、あらゆる言明において成立可能であることになるのです。こうして言明による自己言及的な形式体系が可能であることになります。

 では、言明による自己言及的な体系と、理論と現実の隔たりの問題はどう関係するのでしょうか。まず、言明による言明の指し示しを考えてみましょう。言明が言明を指し示しているとき、指し示しているほうの言明が理論であり、指し示されているほうの言明が現実です。それが相互に指し示されている限りにおいて、言明の相互規定が成立します。しかし、これは言明の理論と現実が相互に入れ替わるサイクルが成立しているだけであり、理論と現実が一致したわけではありません。それが一致するには、単独の言明において、言明の相互規定が成立しなくてはなりません。この単独の言明における、言明の相互規定の実現が、言明による自己言及的な形式体系なのです。したがって言明による自己言及的な形式体系が、言明における理論と現実の一致の実現なのです*1

 こうして、言明における理論と現実の一致は可能であることがわかります。しかし、ここで問題が生じます。すなわち、理論と現実の隔たりを一致させることを目的とするのか、その一致の後に、理論と現実の隔たりそのものを破棄することを目的とするのかという問題です。(1)もし言明において理論と現実を一致させることが到達点である(言明による自己言及的な形式体系を、形式体系を解体するものであるとともに、形式体系がそこから生れる条件であるとしてとらえる)なら、一致に先立ってある隔たりは決してなくなりません。(2)もし両者の隔たりが一切なくなることが到達点である(言明による自己言及的な形式体系を見出すことで、形式体系を自己言及的な形式体系そのものまで含めて破棄し、その外部に想定される何か多様体のようなものに到達する)なら、はじめから隔たりはないことになります*2。したがって、(1)(2)のいずれを採用しようとも、理論と現実の隔たりを言明による自己言及的な形式体系の構成によって解消することは不可能であることになります。こうして「形式化」期はこの不可能性に直面し、揺れ動いたまま唐突に終るのです。


「内省と遡行」「隠喩としての建築」「形式化の諸問題」「言語・数・貨幣」の読解のポイント

(1) 形式化によって自己言及的な形式体系が見出される。
(2) 一元的な形式体系は自己言及的な形式体系によって解体されるものであり、自己言及的な形式体系の自己言及性の禁止によって成り立つものである。
(3) 自己言及的な形式体系は、言明における理論と現実の一致としてある。
(4) 理論と現実を一致させることを目的とするか、理論と現実の隔たりがないことを目的とするかで論点が動揺し、「形式化」期は終る。


隠喩としての建築 (講談社学術文庫)
差異としての場所 (講談社学術文庫)
内省と遡行 (講談社学術文庫)

*1:それが具体的になんであるのかについては、別に論ずる。

*2:形式化に時系列はなく、したがって事前も事後もない。形式化「後」にないものは、形式化「前」にもない。