柄谷行人を読む(36)補論I:自己言及のパラドックスについて

柄谷行人の「形式化」について

  • 柄谷行人は「内省と遡行」から「言語・数・貨幣」に至る論稿において、言明による自己言及的な形式体系について論じた。それは言明において理論と現実の隔たりを解消する試みであった。しかし、柄谷自身は形式化を行っておらず、その体系は間接的に記述されているにすぎない。ここでは柄谷が直接問わなかった、言明による自己言及的な形式体系について論ずる。


理論と現実

  • 現実とは具体的で多様に移り変わるものである。理論とは現実のなかに見出された変わらないものであり、現実を映すものである。
  • 理論と現実は同一ではない。しかし、一定の条件において、理論と現実が一致する可能性がある。言明はその条件を満たす。言明はそれ自体が具体的で多様に移り変わるものであり、同時にそれ自体が現実を映す。
  • しかし、言明は理論であったり現実であったりするが、それ自体が理論と現実の一致ではない。


言明の意味と機能

  • 言明は何かを指し示す。この指し示しを機能とよび、指し示されたものを意味とよぶ。


言明の真偽

  • 言明の真偽は、言明とそれが指し示す現実との関係である。「地球は丸い」という言明が正しいのは、この言明が指し示す現実においても地球が丸いからである。逆に「地球は平らである」という言明が正しくないのは、この言明が指し示す現実においては地球は平らではないからである。つまり、「地球は平らである」という言明そのものをどう分析しても、その真偽を決めることはできない。よって、とりあえず、ある言明の真偽は、その言明が指し示す現実が決めるということができる。
  • しかし、天動説の世界では「地球は平らである」は正しく、「地球は丸い」は正しくない。天動説の世界では、まさしく地球は平らなものとしてあるからである。あるいは、そもそも地球を観察する技術がなけば、この言明の真偽は決らないともいえる。その意味では、言明が指し示す現実も決して真偽を一義的に決めるわけではない。このとき、ある言明の真偽は、その言明が指し示す現実があるときに真であり、それがないときに偽であり、それがあるのかないのかわからないときには決らないことになる。


言明世界

  • ここに、いかなる言明も真か偽が一義的に決まらなくてはならない、という信念があるとしよう。この信念のもとでは、言明が指し示す現実として言明が選ばれる。その理由は、(1)言明もまたそれ自体が現実であり、他の言明によって指し示されることが可能であるから、(2)ある言明が指し示す現実があるのかないのかをいうのに、言明の探索以外の作業を必要としないから、である。
  • この信念のもとに、いかなる言明の真偽も決まる世界を考えてみる。このとき、すべての言明の真偽は、他の言明によって決まる。したがって、言明の指し示すものは言明であって、それ以外のものではない。この、すべてが言明についての言明である世界を、言明世界とよぶ。
  • 言明世界においては、言明を指し示す言明が理論であり、言明によって指し示される言明が現実である。
  • 言明世界においては、言明の真偽は、ある言明が指し示す現実であるところの言明があるかないかで決まる。したがって、言明の真偽は、言明の探索によって決まる。言明の探索は、個々の言明が、ある言明によって指し示されているか否かを決める作業である。つまり「Aは真である」、「Aは偽である」という言明は、「これはAである」、「これはAではない」に等しい。言明世界において、真偽は言明の同定に等しい。
  • このとき、言明の意味としての言明は現実、言明を同定する言明は理論である。


自己言及のパラドックス

  • 言明世界においても、「これはAである」、「これはAではない」を同定できない、したがって真偽を決定できない言明がある。それが自己言及のパラドックスである。
  • 「この文は偽である」という命題をAとする。言明世界においては、言明は真か偽であるから、Aの真偽は次のようになる。

 a-1  もしAが真であるなら、「この文は偽である」は真である。
 a-2 もしAが偽であるなら、「この文は偽である」は偽である。

 b-1  もし「この文は偽である」が真であるなら、Aは「この文」が偽であると述べている。
 b-2 もし「この文は偽である」が偽であるなら、Aは「この文」が偽ではない、つまり真であると述べている。

  • a-1、a-2ではAの意味は問われていない。一方、b-1、b-2ではAの意味が問われている。その結果、Aは真でもあり、偽でもあることになり、パラドックスが成立している。
  • このときAは、それが指し示す現実=言明があるのかないのかがわからないから、真偽が決まらないのではない。Aが指し示す現実=言明があることもないことも可能であるから、つまり真でもあり偽でもあるから、真偽が決まらないのである。
  • Aに自己言及のパラドックスが生ずるのは、a-1、a-2という命題Aの真偽に言及する言明があり、かつそれがAが指し示す言明と比較されるときに限られる。言い換えれば、b-1、b-2において「この文」とAそのものが同一であるとみなされるときに限られる。
  • 言明世界において、「Aは偽である」は「これはAではない」に等しい。したがって、「この文は偽である」は「これは言明ではない」と等しく、さらに「この言明は同定できない」に等しい。
  • 「この言明は同定できない」は、言明の意味を問えば同定できないが、その意味を問うている時点でその言明を同定している。これは、言明の意味を問うことと、言明を言明として同定することとが異なるものであり、自己言及のパラドックスは言明の意味と同定の一致として成立することを示す。


言明の意味

  • 「この文は偽である」において、「この文」が指し示すものと「この文は偽である」を同一とみなすことができる条件を考える。それが可能となるには、言明の意味に先立って、そこに「こ」、「の」、「文」、「は」、「偽」、「で」、「あ」、「る」という記号が並んでいなくてはならない。
  • このとき、この記号の羅列は「この文」の意味と、「この文は偽である」という言明が一致することを可能にする条件である。したがってこの記号の羅列は、言明とその指し示しとは異なる性質をもつ。それは、言明の物質性である。
  • 言明の物質性は、狭義の視覚的文字(線の集まり)に限らず、音声や物理的形状をも含む。


言明の同定

  • 言明の物質性としての記号の羅列があるだけでは、言明は同定されない。例えば、この記号の羅列の順番が変わり、「で」、「こ」、「偽」、「は」、「の」、「文」、「る」、「あ」となったとしよう。この記号の羅列から「この文は偽である」を同定することはできない。
  • しかし、「こ」、「の」、「文」、「は」、「偽」、「で」、「あ」、「る」と「で」、「こ」、「偽」、「は」、「の」、「文」、「る」、「あ」は、ともに同じ記号の羅列である。したがって「この文は偽である」という言明の同定には、同定に先立って記号の羅列と結び付けられる内的イメージがなくてはならない。それは言明の主観性である。
  • 言明の主観性は、言明の物質性から切り離された言明の意味である。


言明という形式

  • 言明の物質性が意味を可能とし、言明の主観性が同定を可能とする。では言明の物質性と主観性が、自己言及のパラドックスを成立させるのか。否である。「こ」、「の」、「文」、「は」、「偽」、「で」、「あ」、「る」という記号の羅列と、「この文は偽である」という内的イメージがあるからといって、普遍的に意味と同定が一致するわけではない。それには、この「「こ」、「の」、「文」、「は」、「偽」、「で」、「あ」、「る」」と、この「この文は偽である」とを一致させる、物質性でも主観性でもない「この」がなくてはならない。
  • 言明の物質性と主観性が、意味と同定を一致させるのではない。意味と同定の一致が、その条件としての言明の物質性と主観性を見出させるのである。つまり、物質性と主観性に先立って、意味と同定の一致としての言明が成立している。これは言明という形式そのものである。
  • 言明に物質性と主観性があるのではない。言明という形式が、物質的な規定と主観的な規定によって成り立つのである。
  • つまり、自己言及のパラドックスの成立条件は、「この言明」であり、言明という形式である。


言明世界の条件的成立

  • 言明世界とは、すべてが言明についての言明の世界である。自己言及のパラドックスは、言明世界において成立するものであるから、言明世界が不可能であることを示すものではない。
  • 自己言及のパラドックスは、言明世界において真でもあり偽でもある言明があることを示す。その成立条件は、「言明の真偽が置換可能な言明世界」、そして「理論と現実が一致する言明世界」の成立条件に等しい。
  • 自己言及のパラドックスの成立する条件は、言明という形式である。一切を言明という形式に還元するなら、「言明の真偽が置換可能な言明世界」、「理論と現実が一致する言明世界」が成立する。