柄谷行人を読む(28)方法論的批評としての批評的還元

 『内省と遡行』および『隠喩としての建築』の読解に移る前に、ここであらためて本草稿の方法論について確認しておくことにします。最初に私は本草稿において、柄谷の一連の著作が、1) 言明としての思考を読解する作業が、2) 2つの切断をはさんで継続されている、3) ひとつの大きな論考群である、とみなして読解することを宣言し、実際にそのようにして作業をおこなってきました。今後もこの基本方針に変更はありませんが、しかし、さらに読解を進めていくにあたって、より体系的な方法論を提示しておく必要があると思われます。

 あらためて確認しておくと本草稿は、<批評>を批判する論稿を完成させることを最終目的としています。<批評>とは言明の読解を思考とみなす態度のことであり、単なる言明の読解としての批評とは区別されるものです。この<批評>は、20世紀的な思考を規定しており、現在の私たちの思考をも強く支配しています。そしてそのひとつの到達地点であるとみなされるのが柄谷行人サルトルです。したがって本草稿は、必然的に両者を批判するものとなります。

 しかし、<批評>を論ずる際にはおのずと困難が伴います。なにより柄谷とサルトルがそのひとつの到達点である限りにおいて、何が<批評>であるのかについて無自覚なまま単に否定してかかることは、<批評>以前に留まることに過ぎず、結局はそれを生きながらえさせることに加担するだけです。そこで、両者の<批評>を論ずる私たちは、みずからの方法として<批評>を自覚的に採用するところからはじめなくてはなりません。しかし、その際に2つの点に注意する必要があります。ひとつは、<批評>が批判されるべきものである限りにおいて、そこで採用された<批評>もまた最終的には棄却されなくてはならないということです。あくまで<批評>を批判するために<批評>という方法を自覚的に用いるのであって、そのことを忘れてしまうと、容易に批判対象のなかに埋没することになるでしょう。このような批判的方法としての<批評>のことを、方法論的批評とよぶことにします。

 もうひとつの注意点は、この方法論的批評の方法というものが、<批評>に先立ってあらかじめ与えられるものではないということです。なぜなら柄谷やサルトルの作業はどこまでも<批評>なのであり、それ自体は方法論的批評ではないからです。両者にとって<批評>はひとつの地平であり、無自覚になされたものであって、決して方法論的に取り出しうるものではありません。方法論的批評の方法論は、両者の<批評>の読解の過程で明らかになるものであって、それに先立って存在するものではないのです。したがって、この方法論的批評の方法論は、厳密に言えばそれが棄却される直前になってはじめて示しうるものです。しかし、この<批評><批評>もまたひとつの論稿として記述されるものである以上、方法論を最後に示すというのは、読者に対して甚だ不親切であるといわざるを得ません。そこで本草稿ではこの段階で、その方法論的批評の方法論について明示しておくことにしたいと思います。