萱野稔人が、以下のサイトで、「国家・国境・領土」と題して、グローバリゼーションと国境について論じている。

国家・国境・領土
国家・国境・領土2
国家・国境・領土3

 まだ議論は続くのであろうから、これだけで萱野の議論のすべてを評価するつもりはない。ただ、ひとつだけ、ここまでの議論で、気になる問題を指摘しておきたい。

 ここで萱野が述べている内容を簡単にまとめれば、次のようになる。

  • 国家と領土の関係には、領土主権と国家領土という2つの枠組みがある。グローバリゼーションによって、国家と領土の結びつきは希薄になりつつある。しかし、それで影響されるのは領土主権であって、国家領土ではない。
  • 国境は、国際的な労働力の管理に利用される。
  • 国家は暴力を合法的に独占する。国境には、暴力独占の範囲を定める、国境の向こうにも国家が存在することを法的に認める、という意味がある。
  • したがって、グローバリゼーションによって領土主権が空洞化されても、国境はなくならない。

 国家、権力、領土、国境という用語が、正確に使い分けられていないが、それはさしあたって大きな問題ではない。私が問題だと思うのは、国境が、土地の境界をさしているのか、人間集団の境界をさしているのかがあいまいであること、そして、それらと暴力の独占との関係があいまいであることである。

 萱野の議論に沿って考えてみよう。グローバリゼーションによって、ヒト、モノ、カネが移動する規模が大きくなっても、国境は変わらない。もし、国境が人間集団の境界を指しているのであれば、それはヒトの移動によって変化することになる。これは、萱野の議論と矛盾する。むしろ、人間集団の境界は、権力の及ぶ範囲(領土から切り離された主権の範囲)と理解したほうがいいだろう。したがって、国境は、人間集団の境界ではなく、土地の境界である(図1、図2)。


 さて、萱野は、国家は暴力の合法的独占であるという。このとき、国境は、暴力独占の範囲を決定する。しかし、暴力の独占によって国家を形成するのは、土地そのものではなく、人間集団である。よって、ある国家における暴力の合法的独占は、その土地の境界の内部における人間集団においてなされる(図3)。このとき、ヒトの移動によって、人間集団の構成員が変わろうとも、この暴力の独占にとっては関係がない。すなわち、人間集団の条件は、暴力の独占に影響しない。

 それでは、この土地の境界は何によって生み出されるのか。萱野は、国境は労働力の管理に利用されるという。労働力の管理は、土地そのものではなく、人間集団に対してなされる。ここで、労働力の管理の結果として、土地の境界が生み出されるとする。すると、人間集団の条件が土地の境界を決定することになる。これは、結果的に、人間集団の条件が、土地の境界の内部における暴力の独占に影響することになり、先の前提に矛盾する*1。つまり、国境が労働力の管理に利用されるというとき、それは、すでにある土地の境界が、人間集団の条件に利用されるということであって、労働力の管理が土地の境界を定めるわけではない。

 では、土地の境界は、暴力の独占によって生み出されるのか。すでにみたように、ある特定の国家における暴力独占が、その人間集団においてなされる理由は、その人間集団が土地の境界の内部にいるからという以上のものではない。ここで、土地の境界とは関係なく選択された、任意の人間集団における暴力の独占の結果として、土地の境界が生まれるとする。すると、暴力独占が土地の境界の内部でなされるという条件がある以上、その人間集団の境界が、そのまま土地の境界を決定することになる。これは最初の前提に矛盾する。つまり、暴力独占が土地の境界を決定しているわけではなく、暴力の独占とは別の理由で、そこに土地の境界があるのでなくてはならない。

 以上より、グローバリゼーションにおいて、暴力独占にもとづく国家はなくならないという理屈は通っても、それだけで国境はなくならないという理由にはならない。それでもそれが成立するというためには、国家にとって国境は無条件の前提であるとみなすか、暴力の独占と国境の成立(人間集団の境界と土地の境界)を結びつける、暴力の独占以外の理由を考えなくてはならないだろう。しかし、そのいずれを選択しようと、国家の成立を、暴力の合法的独占のみで説明することを断念しなくてはならない。

 今後の議論によって、この問題が解決されることを期待する。

*1:あるいは、人間集団の条件が決定されることで、土地の境界が決まるのであれば、その条件を満たす構成員が移動するに伴って、土地の境界も移動する。