トランスクリティークとポストモダン

ポスト・モダンな言説の「嵐」は、すでに少数の学者・批評家の範囲をこえて吹きまくっている。私自身の書いたものがその原因の一端であるといわれるかもしれないが、そのような「光景」は私と根本的に無縁である。というよりも、私はそのように反復される「光景」のなかから出発したのであり、その悲惨を共有しすぎているのである。

柄谷行人「批評とポスト・モダン」


1. はじめに
 近代という時代の抑圧からの解放として登場したポストモダンは、時を経て、時代の閉塞を象徴する言葉となってしまった。いまやポストモダンをめぐるあらゆる言説が、新しい時代を切り開こうとする身振りを競っている。しかし、みずからを取り巻く「時代」なるものを見出し、そこでの振る舞いを見極める態度こそがポストモダンではないのか。とすれば、現在はまさにポストモダン全盛の時代である。誰もが思い思いに設定したポストモダンの「時代」を受容し、批判し、分析し、そこから逃避し、まさしくポストモダニストとして振舞っているのだから。もしそれを時代の閉塞とよぶのなら、それは「時代」そのものの閉塞というべきだろう。

 柄谷行人は、20世紀後半の日本を背景に圧倒的な強度で思考を続け、ポストモダンを批判し続けた。しかし「トランスクリティーク」とよばれる思考態度に到達した時期を境として、急速に影響力を低下させた。本稿の目的は、この柄谷の思考の過程を追跡し、その起源と限界を明らかにすることにある。そしてそれはそのままポストモダンの思想地図を描き出すことになるだろう。なぜなら柄谷が最終的に到達した地平こそ、ポストモダンそのものだからであり、有象無象のポストモダニストたちをうみだす<批評>空間だからである。


2. 柄谷行人
2.1. 論稿群の分類
 柄谷行人には数多くの著作がある。われわれはそれらを、1) 思考を読解する作業が、2) 2つの切断をはさんで継続されている、3) ひとつの大きな論考群である、とみなす。そして2つの切断を、<切断A><切断B>とよび、論稿群をI〜III期に分類する。

I期(1960年代後半から80年代初頭):
『畏怖する人間』、『意味という病』、『マルクスその可能性の中心』、『日本近代文学の起源』、『隠喩としての建築』、『内省と遡行』


 <切断A>


II期(1980年代中頃から1990年代中頃):
『探究I』、『探究II』、『ヒューモアとしての唯物論


 <切断B>


III期(1990年代後半以降):
『倫理21』、『トランスクリティーク』、『世界共和国へ』


 以下、この分類にもとづいて柄谷の思考の過程を読み解いていく。ここで、読解のキーワードとなる、実存と社会という2つの用語を定義しておこう。「ここにある私」を内側から問うていくと、もろもろの対象としての世界と、思いをめぐらせている意識がある。この意識と世界の関係を実存とよぶ。一方、「ここにある私」を外側から問うていくと、それは行為によって相互に関係する人間であり、同時に反応によって相互に関係する物質である。この人間と物質の関係を社会とよぶ。このとき、まさに実存を問うているときには社会はなく、社会を問うているときには実存はないように思われる。では、実存と社会はどう関係しているのか。


2.2. I期(1960年代後半から80年代初頭)

 「意識と自然」(『畏怖する人間』)、「マクベス論」(『意味という病』)で、柄谷は内部と外部の対立と、その逆接としての「自然」について述べている。これは実存と社会の関係において、「実存か社会か」という問いはそれ自体がひとつの理論であって、現実はその問いに先立ってあるということである。つまり「実存の問い」と「社会の問い」に先立って、現実をなす「実存」と「社会」がある。

 続く『マルクスその可能性の中心』では、おおきく2つのことが論じられる。ひとつはマルクスの価値形態論である。価値形態は差異の戯れととらえられ、貨幣はそれを隠蔽するものであるとされる。もうひとつは、マルクス自身の地理的な移動である。マルクスはその都度、対象を変えながらも、一貫してテクストを読んだとされる。このとき貨幣に先立つ差異の戯れが、マルクス自身が商品というテクストを読解することによって見出される。つまりここでは、理論としての社会の問いが、現実としてのマルクスの「実存」によって規定される。

 これに対して『日本近代文学の起源』では、近代文学の諸概念が明治日本の急速な近代化の過程で成立し、その後に起源が隠蔽されたことが論じられる。そして、歴史という視点そのものも近代の制度であるとされる。つまり近代の制度は歴史的に形成されたが、その形成を見出す視点もまた歴史的に形成されたのである。ここでは、意識と世界の関係である近代の制度が、近代という歴史に先立つ「社会」によって規定される。

 こうみると『マルクスその可能性の中心』と『日本近代文学の起源』の議論の構図は、完全に対称をなしていることがわかる。両者は実存と社会の関係を、それぞれどちらを理論と現実に位置づけるかで相補的に論じているのである。
 ではなぜ両者は相補的な構図をなしているのか。すでにみたように、実存と社会の対立は、実は「実存の問い/社会の問い」という理論と、「実存社会」という現実の隔たりに基づいている。したがって、実存と社会の対立を解消するには、理論と現実の隔たりを解消しなくてはならない。そこで柄谷は、前者で「社会の問い」を規定する「実存」というサイクルを、後者で「実存の問い」を規定する「社会」というサイクルを描くことで、理論と現実を重ね合わせたのである。しかし、結局、両者において理論と現実の隔たりは解消されない。なぜなら、それはどこまでも重ね合わせに過ぎないからである。それが一致するには、両者が言明の地平になくてはならない。

 なぜ、理論と現実の隔たりの解消は言明の地平でなされなくてはならないのか。それは言明が、その内容において理論を記述し、その存在において現実だからである。言明の地平においてはじめて、理論と現実の隔たりがなくなるのだ。かくして「内省と遡行」(『内省と遡行』)、「形式化の諸問題」「隠喩としての建築」(『隠喩としての建築』)、「言語・数・貨幣」(『内省と遡行』)という一連の論稿で柄谷は、言語の形式化の徹底によって内部と外部の対立を内部から自己崩壊させるという戦略を問う。これは結局、理論と現実の隔たりを言明の地平において解消させることで、内部と外部、つまり実存と社会の対立そのものを無効にしようとする試みである。ただこの時点ではあくまでも戦略が示されただけで、それは実行されていない。

 そしてこの後、柄谷は<切断A>を迎える。


2.3 II期(1980年代中頃から1990年代中頃)

 言明は理論を記述するものであり、同時にそれじたいが現実である。言明において理論と現実の隔たりは解消される。それは実存と社会の対立の解消に等しい。そしてまさに言明においてあるとき、実存と社会を規定する形式的な関係が見出される。II期I期の最後に示されたこの戦略のひとつの実行である。つまり、戦略的に見出された言明の地平のただなかに入ることで、「実存か社会か」という問いから自由になるのである。よってI期からII期への移行において、決してそれまでになかった新しい戦略がとられているわけではない。むしろそこに断絶はなく連続している。

 『探究I』の議論の構図はおおきく2つにわかれる。まず独我論が否定され、「教える・学ぶ」関係にある他者が示される。これはI期における実存の再構成であり、他者に規定される「意味の体系」である。もう一方で、「売る・買う」関係にある共同体間の外部が示される。これは社会の再構成であり、外部に規定される「価値の体系」である。つまり意味の体系と価値の体系があり、それぞれを規定する他者と外部がある。

 『探究II』では、『探究I』の構図がさらに再構成されていく。それは意味の体系と価値の体系の相互関係を明らかにする作業である。第1部では、固有名が議論され、意味の体系と価値の体系を結ぶ固定指示子が指摘される。第2部では、一般と特殊の軸と単独と普遍の軸が対比され、後者が超越論的自己とよばれる。そして第3部では、共同体の成立する場所としての交通空間がみいだされる。
 この時点で、意味の体系と価値の体系はひとつの経験的なものの軸の両極として再構成されている。一方で、その両極の反復としての超越論的自己と、両極を生み出す地平としての交通空間がある。ここでは交通空間から経験的なものの両極が構成され、その反復として超越論的自己がある。つまり、交通空間は超越論的自己に先立っている。

 このようにII期の作業は、I期で問われていた実存と社会の関係を、言明の地平において再構成する作業である。続いて柄谷は『探究III』に相当する論稿を書くが、それは中断され、<切断B>を経てIII期へと移行する。


2.4. III期(1990年代後半以降)

 III期も基本的にII期の延長にある。しかし、III期II期と決定的に異なるのは言明の地平そのものが完全に消失することである。つまりII期ではいまだ戦略的に言明の地平において論じられていたものが、III期では柄谷自身がまさに言明の地平のなかに埋没することで、その地平が背景として消失するのである。このとき、言明の読解としての言明、すなわち批評が世界と完全に一致する。<批評>の誕生である。

 『トランスクリティーク』の議論の基本構成は、主観的地平と社会的地平の往還である。II期における経験的なものの2つの極は、主観的地平と社会的地平に再構成される。主観的(カント的)地平にある諸形式は、理論的判断/実践的判断/美的判断という構造をなす。これは物自体によって規定される。一方、社会的(マルクス的)地平にある諸形式は、互酬/再分配/商品交換という構造をなす。これは他者によって規定される。そして「物自体は他者である」とされる。またII期における超越論的自己と交通空間のあいだの一方的な関係は、超越論的なものと経験論的なものの関係に再構成される。こうして主観的地平と社会的地平は、超越論的/経験論的なものの契機によって相互に移行することになる。つまり、主観的地平と社会的地平を往還するところに超越論的なものがあり、往還によって2つの地平が経験論的なものとして構成されるのである。これがトランスクリティークである。

 ここから柄谷は倫理を導く。主観的地平における倫理は、「自由であれ」という他者からの命令とされる。一方、社会的地平における理念は、アソシエーショニズムの実現とされる。両者はトランスクリティカルであれ(<批評>であれ)というひとつの倫理=理念の2つの側面にほかならない。

 これが柄谷の思考の到達地点である。では柄谷の思考の起源はどこにあるのだろうか。それを解く鍵は、やはりカントとマルクスの間で考えたサルトルにある。


3. サルトル、『存在と無』と『弁証法的理性批判』
 倫理とは何か。それはかくあるべしという格率である。これが成り立つには、理論と現実のあいだに隔たりがなければならない。その隔たりがあるから、現実から理論を導く抽象と、理論を現実化する実践とが成り立つ。格率とはこの抽象と実践を規定するものである。

 サルトルは『存在と無』で、実存における意識と世界の再帰的構造を明らかにした。即自の無化が対自であり、その無が存在を存在たらしめる。

 この即自の総体が世界であり、対自の時間的連続が意識である。世界と意識はつながっており、そのつながりと同じ条件で他者がある。このとき、意識に対して構成される即自存在の関係が意味である。したがって、意味はつねにあるが、意識はそれに先立つ。

 このように意識と世界、すなわち実存はすでに意味を選択している。では、実存は何を選択するべきか、そもそも何かを選択するべきだということはできるのか。サルトルは『存在と無』の結論の最後で、続く倫理の書を予告する。
 一般的には、その倫理の書は完成しなかったとされる。しかし、サルトルはもうひとつの理論的著作である『弁証法的理性批判』で、この問題に正面から取り組んでいる。そして明快な結論を出す。ここでサルトルは、実存と社会を接合することで倫理を導こうとした。まず、個人の実践とは全体化である。直接的な個人の経験が実践的=惰性態となり、実践的=惰性態から溶解集団が形成される。溶解集団が組織化されるとき、制度がうまれる。このとき、共同の実践というものは存在せず、あるのは実践的個人だけである。この過程を経験するのが弁証法的理性であり、実践であり歴史である。
 サルトルはここで、実存から社会へ、さらに社会から実存へと往還する弁証法的運動において、自由を実現することを倫理とした。すなわち弁証法的理性であることが倫理なのである。それは理論化に先立ってすでにサルトル自身が実践していたところのアンガージュマンの正当化である。

 この弁証法的理性は実存と社会の運動であると同時に、実存と社会を理論化し、かつそれを生きる(実践する)ものである。それは個人であり、サルトル本人である。レヴィ=ストロースは『野生の思考』で『弁証法的理性批判』を批判した。これは実存と社会の関係を理論化すると同時に実践する弁証法的理性に対する批判だが、弁証法的理性に先立つ実存と社会の関係があるという視点からなされている。つまり、実存と社会の対立をいかに解消するかという本書の問題意識は、そのまま引き継がれているのである。レヴィ=ストロースは、サルトルの問題意識からサルトル本人およびサルトル的な特権的知識人を批判したといっていい。それは逆にいえば、サルトルの設定した問題が、サルトル個人から切り離されて一般化されたということである。


4. 哲学と倫理
 柄谷の思考の起源もここにある。つまり弁証法的理性を仮定せずに、実存と社会の関係を結びつけることである。
 あらためて考えよう。なぜ「実存か社会か」という問いは可能なのか。まさに実存の問いのなかにあるとき、そこに社会はない。まさに社会の問いのなかにあるとき、そこに実存はない。したがって、本来的には「実存か社会か」などという問いは成立し得ないのである。それは、本来的には同時に成立し得ない実存と社会を同時に比較する視点があって初めて可能となる。しかし問題は、この視点そのものは実存でも社会でもないということである。この実存と社会を比較する視点と、「実存」と「社会」の隔たりこそ、理論と現実の隔たりにほかならない。そこで柄谷は、理論と現実の関係を言明の地平に埋め込む。言明はその内容において理論を記述しつつ、それ自体が現実であることが可能だからである。つまり言明において理論と現実が一致する。そしてまさにその言明の地平にあることによって、実存と社会の関係は主観的地平と社会的地平の往還=トランスクリティークに再構成される。

 では、このとき倫理はどうなったか。もとより理論と現実の隔たりがあってはじめて抽象と実践が成り立つ。サルトルは『存在と無』、『実存主義ヒューマニズムである』で、「人間は自由という刑に処せられている」、「実存は本質に先立つ」とした。これは理論と現実の隔たり以前の実存の構造を述べただけで、そこに倫理は成立しない。それが『弁証法的理性批判』では両者の隔たりが問題とされ、自由を実践する弁証法的理性が倫理となる。それは「現実に自由でなければ、自由という刑に処せられよ」、「現実に本質が先立っていれば、本質に先立つ実存であれ」という仮言命法である。これに対してIII期の柄谷においては、理論と現実の隔たりが見出された後に解消されている。そこでの倫理は「自由であれ」と無限の未来におけるアソシエーショニズムの実現である。それは言い換えれば、主観的地平と社会的地平を往還するどこにもない場所にあれ、ということであり、理論的かつ現実的であれ、ということである。結局、この倫理=理念は、「言明の地平にあれ」という定言命法である。ここでは言明すなわち抽象=実践であり、言明すなわち倫理=理念である。

 したがってこういうことである。柄谷の一連の思考は、実存と社会の対立の解消に向かっていたのであり、それは結局、サルトルが『存在と無』の最後で設定し、『弁証法的理性批判』で展開した倫理の問題を解決することに等しかった。そしてそれは言明の地平に埋没することで達成された。振り返ってみれば、2つの切断はただその過程をなしているに過ぎなかったのである。

 そしてトランスクリティークは普遍化し、柄谷はみずからの開拓したその地平の片隅へと追いやられていく。


5. トランスクリティークポストモダン
5.1. トランスクリティークポストモダン
 ポストモダンとは大きな物語の終焉である。ここでいう物語とは、一方で個人が抱く理想のことであり、もう一方で個々人の想いを超えて社会のありようを決定する現実的な力のことである。大きな物語が支配するモダンでは、ひとつの理想、ひとつの現実が共有されており、誰もが同じように現実から理想を導き、理想を現実化しようとする。それがポストモダンにおいて、理想と現実が多様化する。そこにあるのは、もろもろの理想と現実の相互関係だけである。

 このとき、ポストモダントランスクリティークは何が違うのか。もろもろの理想と現実の関係だけがあるポストモダンと、理論的かつ現実的であれというトランスクリティーク。それは対極にあるかのようにみえて、実はひとつの事態の2つの側面にすぎない。もろもろの理想と現実の関係だけがあるから、それらの往還としてのどこにもない場所=トランスクリティカルな地平にあることができる。トランスクリティカルな地平があるからこそ、もろもろの理想と現実の総体をポストモダンとして確定できる。トランスクリティークとはそれ自体がポストモダンの理想であり、ポストモダンとはトランスクリティークの現実にほかならない。そして、まさにトランスクリティカルであるかぎりにおいて、つまり理論(理想)と現実の一致する言明の地平にあるかぎり、結局のところ両者は同じである。

 もちろん、柄谷自身がポストモダンを実現したわけではない。すでにポストモダンの現実はそこにあった。そしてII期までの柄谷は、むしろポストモダンを批判していた。ただし、それはポストモダンの現実の否定ではない。まさに現実がポストモダンだからこそ、柄谷はポストモダンを謳いながら実際にはポストモダン的ではない諸々の言明を批判していたのである。それはいわば理論と現実の隔たりに対する批判であった。

 そしてIII期の柄谷は、ポストモダンの理論と現実の一致としてのトランスクリティークに到達し、倫理=理念を提示する。それはポストモダンの理論的地平を確定し、そこでの現実的な振る舞いを定型化するものであった。ここにおいて、普遍的なポストモダニスト像が確立される。同時に、柄谷自身もひとりのポストモダニストとして、もろもろのポストモダニストたちと肩を並べることになる。そして彼らによって、柄谷は衰弱したものにされる。かつてサルトルの模倣者たちが、サルトルを過去のものとして葬ったように。こうしてトランスクリティークポストモダンが、柄谷の名を抹消し、普遍的な世界として完成したのである。


5.2. ポストモダニストの4類型
 トランスクリティークポストモダンの世界を生きるポストモダニストたち。彼らはトランスクリティークの倫理=理念を忠実に守って、言明の地平にとどまっている。彼らに見えているのは言明の相互関係だけであり、それだけが世界である。彼らは言明に関する言明を紡ぎだす作業を繰り返し、それだけが思考だと思っている。ここでポストモダニストをその振る舞いによって分類してみよう。

 トランスクリティークポストモダンの世界は、2つの平面に展開される。(1)形式/機能の平面と、(2)ローカル/グローバルの平面である。


 (1)形式/機能
 形式とは言明が指し示しているところのものであり、機能とは言明による形式の指し示しのことである。言明の相互関係の中にこの形式と機能の関係を見出す方法には、以下の4つのパターンがある。

 この4つのパターンはどれかひとつだけを取り出すことはできない。これらは相互に移行するサイクルを描きながら、ひとつのトランスクリティークを形成している。


 (2) ローカル/グローバル
 ローカルとは諸言明の個別の結びつきであり、グローバルとは諸言明の総体である。ローカル/グローバルの分離は、言語的なもの、地理的なもの、人間集団的なもの、学術的なものなど、あらゆるレベルにおいて出現する。

 以上の形式/機能とローカル/グローバルの平面を重ね合わせることで、ポストモダニストを分類することができる。


 ローカルなものとグローバルなものを往復し、どこにもない場所にとどまろうとする。常に分析的な視点にたち、モダンとポストモダンの関係を問い続ける。両者の関係を示すために、しばしば歴史を参照する。

 ローカルなものからグローバルなものを構成しようとする。ローカルなものをモダンとみなし、モダニズムの徹底によってグローバルなものを実現しようとする。言明の機能を重視し、政治的に振舞う。

 グローバルなものの地平にローカルなものを位置づけ、そこにアンガージュマンする。常にグローバルなものからアンガージュマンを繰り返すため、いくつかのローカルなものを横断することになる。言明の形式を重視し、学術的に振舞う。

 ローカルなものとグローバルなものを結ぶ、ローカルでもグローバルでもないものを見出そうとする。そして言明の地平そのものを問う結果、何かしら非言明的なものを記述する言明を「現実」として暫定的な原理にすえる。ローカルにもグローバルにも足がかりをおかずに両者を視野に入れようとするため、しばしば<批評>を分類する。


 彼らトランスクリティカルなポストモダニストたちは、お互いの間に境界線を引く。原理主義的ポストモダニストは他のポストモダニストたちから孤立しようとする、近代主義的ポストモダニスト相対主義的ポストモダニストは相互に対立を演ずる、現実主義的ポストモダニスト原理主義的ポストモダニストを批判しつつ、近代主義的ポストモダニスト相対主義的ポストモダニストの対立を止揚しようとする、というように。しかし、どのように線を引こうと、結局のところ彼らは等しくトランスクリティークの倫理=理念を実践するポストモダニストである。彼らはお互いに<批評>空間に思想地図を描くことで、その倫理=理念の共有を覆い隠し、それを不可避なものにしようと共闘しているにすぎない。


5.3. <批評>から思考へ
 彼らポストモダニストたちは言明の地平で思考している。彼らには言明しかないから、もはや言明の地平で思考していることを自覚することもない。彼らにとって、すべては言明に関する言明であり、それだけが思考である。つまり<批評>が世界なのである。だから彼らは、言明以外のものをあらかじめ排除する。彼らは言明化できないものは何もないという。確かにそうだろう。しかし、問題は言明によって記述できるかどうかではない。言明そのものを操ることができるかどうかだ。ポストモダニストたちは、一切は言明化=言語化できると言い放つことで、言語能力そのものを前提とし、結果として言語能力の劣るもの、言語能力のない一切のものをあらかじめ排除したうえで、それらを言明化してしまう。

 ポストモダニストの前にあるのはただ言明だけである。だから、そこにある言明を肯定し、否定し、分析し、脱構築する。彼らにとっては<批評>だけが抽象である。そしてそれがそのまま世界を受容し、批判し、理解し、そこから逃避することになる。彼らにとっては<批評>だけが実践だからである。彼らはいう、次はどうなるか?それは次にどんな言明がでてくるか次第だ、でもどんな言明が出てきたところで、私はその言明についての言明を紡いでみせる、と。こうして彼らは言明の地平でひたすら抽象=実践を繰り返すが、結局それがどうなるかは運を天に任せるしかない。かくてポストモダニストの言明の数だけ、最後の審判がある。

 彼らは、言明だけが世界ではないことを知らないわけではない。にもかかわらず、どうして言明だけが世界だと思いたがるのか。それは、世界には理論と現実の隔たりがあると思い込んでいるからである。だからその隔たりから逃れるために、それが一致する言明の世界に留まろうとする。彼らはこう繰り返す、その理論はもう古い、新しい現実をみろ、それをもっと理論化しろ、と。あるいは「実存の問い」ではなく現実の実存の問題を問え、「社会の問い」ではなく現実の社会の問題を問え、と。そうして結局は言明に一切を還元し、その中で充足してしまう。その意味では、モダンとポストモダンに違いはない。ただモダンは理論と現実の隔たりを解消しようとし、ポストモダンはその隔たりが解消された部分に留まろうとしているだけのことである。

 もっとも、そうするのは勝手なのだ。それもまた彼らの現実だから。彼らは理論と現実の隔たりが解消された部分だけを世界とし、そこに埋没することでじっと次を待っているだけである。その意味では、ポストモダニストを積極的に批判する理由はない。好きにやっていればよろしい。しかし、その現実が閉塞しているというのであれば、どこにそこに留まる理由があるか。彼らは言うだろう、理論と現実が隔たっている、だからそれを何とかしなくてはならないのだ、と。しかし、理論と現実が隔たっているのは当たり前のことである。それが隔たっているのが現実であり、正しくは隔たりそのものが現実ではないのか。一切は隔たりであって、それは現実と現実の隔たりではないのか。

 私は何も難しいことを言っているのではない。私が言っているのは、この地上には無数の現実があるという、ただそれだけのことだ。「理論」という現実があり、「現実」という現実がある。そしてその現実が、ところによっては均一であったり、ところによっては異なったりし、その離散集合をとめどなく繰り返している。それを目の前にしながら、なぜそこにある局所の形而上学に気づかないのか。なぜ現実が物理的に支配され、分断されていることに気づかないのか。あるいは気づいたとしても、どうしてそれを見極めようとしないのか。どうして理論と現実の間でしかものをみず、言明の世界に閉じこもろうとするのか。

 もっとも、ポストモダニストたちには、私が何を言っているのかわからないに違いない。彼らは聞くだろう、いったいトランスクリティークポストモダンの何が問題なのだ、問題だとすればどうすればいいのか、と。答えよう。それは極めて簡単なことである。私はここまで<批評>的であった。柄谷行人サルトルを読み、その論稿を時期別に分類し、批評構造を図式化し、その関係を明らかにした。そしてトランスクリティークとはポストモダンであることを示し、思想地図を描いた。本稿を書いている私は、完全にトランスクリティカルなポストモダニストである。そしてそうである限り、この問いに答えることはできない。だから私はこうする。言明の地平にとどまらず、ローカル/グローバルの地平を捨て去り、言明を論ずることが思考であると思うのをやめる。要するに<批評>をやめるのである。