柄谷行人を読む(38)補論II:「日本ポストモダニズムの<起源>:柄谷行人、浅田彰、東浩紀」後編

 柄谷は自己言及的な形式体系を問うことをやめた。しかし、この問いは東浩紀の『存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』によって反復されることになる。より洗練されたかたちで。

 本書で東は論理的‐存在論脱構築と郵便的‐精神分析脱構築という2つの脱構築について論じている。東の秀逸な整理によれば、論理的‐存在論脱構築は2つのステップから成立する。

第一にその思考は、任意の経験論的テクスト/システムに、それ自身の論理では制御=決定不可能な特異点(singularité)を少なくとも一つ発見する(形式化の限界)。第二にその思考はその特異点を通じて、テクスト/システム以前の差異空間、あるいは「思考されざるもの」へと遡行する(限界の存在論化)。そして遡行の正当性は多くの場合、詩的言語の力への信頼により支えられる。
存在論的、郵便的』、p214。


 第一のステップは論理的脱構築、第二のステップは存在論脱構築ともよばれる。一方、郵便的‐精神分析脱構築は「超越論的思考のもうひとつのタイプ、形式化→存在論化の道に陥らない別の思考の可能性である*1」とされる。そしてハイデガー、および「内省と遡行」から「言語・数・貨幣」に至るまでの柄谷の試みは論理的‐存在論脱構築フロイトおよび第二期デリダの試みは郵便的‐精神分析脱構築と位置づけられる。

 この東の整理をさらにすすめてみよう。すべての言明の真偽が一元的に決まる世界があるとする。これは形而上学の体系であり、先の浅田のモデルでいえば超コード化に相当する。ここに自己言及のパラドックスが見出される。自己言及のパラドックスが成立する言明は、真でもあり偽でもあるから、真偽が一元的に決まらない。したがって、この言明の存在は形而上学の体系が不可能であることを示す。これが論理的脱構築である。続いて、ここから逆転し、自己言及のパラドックスが成立する言明の条件を地平として、無数の形而上学の体系が成立しているとみなす。これが存在論脱構築である。これはまさに、柄谷の自己言及的な形式体系であり、浅田の脱コード化である。

 これに対して、東は郵便的‐精神分析脱構築というものを考える。それは柄谷が「言語・数・貨幣」の最後で模索した自然成長性、あるいは浅田が『構造と力』で示した「リゾーム」に相当するものだが、しかし彼らが漠然としたイメージを示すにとどまったのに対して、東は可能な限りそれを明確に示そうとする。実際には、東は同じ問いを何度も繰り返すことで、次第にその像を明瞭化する作業を行っているのだが、ここではその要点を再構成してみよう。

 まず東は、浅田が『構造と力』で用いた、超コード化=円錐、脱コード化=クラインの壺というイメージ図を応用する。そして論理的脱構築は円錐を内破するクラインの壺存在論脱構築クラインの壺の安定とされる。言い換えれば、前者は円錐の解体であり、後者はクラインの壺そのものとしてある。そして東は、クラインの壺を三次元的にとらえ、その底面と管をその部分として取り出す。このとき、底面部分をシニフィアンエクリチュールの二重性からなるものとし、管部分は他のクラインの壺の管部分と連結可能であるものとする。この二重性と連結可能性によって*2「円錐を内破させつつクラインの壺を閉じさせない*3」ことが可能となる。これが郵便的‐精神分析脱構築のイメージである。

 しかし、これはあくまでもイメージにすぎない。そこでもっと厳密に論理的‐存在論脱構築と郵便的‐精神分析脱構築の違いを論じてみる。


 まず、すべての言明の真偽が一元的に決まる体系があるとする。ここに自己言及のパラドックスを見出すことができる。例えば「この文は偽である」という言明Aがある。言明Aは真でもあり偽でもあるため*4、体系の一元性は崩壊する。これが論理的脱構築である。このとき、言明Aを含む、すべての真でもあり偽でもある言明について、その真偽をひとつひとつ決めていくことで、一元的な体系をつくりだすことができると考えることが可能である。これが存在論脱構築である。

 これに対して、郵便的脱構築は、シニフィアンエクリチュールの二重性に基点を置く。シニフィアンとは言明の意味を解釈をすることを可能とする言明の主観性である*5。一方、エクリチュールは言明を構成する記号の形状*6である。ここでシニフィアンの総体としての「シニフィアンの層」と、エクリチュールの総体としての「エクリチュールの層」というものを考えてみよう。すると言明は、この2つの層の間で構成されることになる。このときシニフィアンの条件やエクリチュールの条件が、一元的に言明を決定することはない。

 例えば、「こ」、「の」、「文」、「は」、「偽」、「で」、「あ」、「る」というエクリチュールを前にしても、日本語を理解でしないものは「この文は偽である」とは全く別のメッセージを見出すかもしれない。また、「で」、「こ」、「偽」、「は」、「の」、「文」、「る」、「あ」というエクリチュールの場合、記号の総体は同じであるにもかかわらず、「この文は偽である」という言明は構成されない。あるいは「この文は偽である」という言明を見出し、そこから「この文」というシニフィアンを取り出したとしても、それが手紙を意味していると理解し、「この手紙はニセモノである」と解釈するかもしれない。つまり「この文は偽である」は、必ずしも自己言及のパラドックスに陥るとは限らないし、そもそも真偽の判別が不能なものになるかもしれない(自己言及のパラドックスは、真であり偽であるのであって、真偽の判別が不可能なのではない)。このように、シニフィアンエクリチュールの二層の間では、真偽が一元的に決まる体系はありえず(論理的脱構築)、かつ真偽を一方的に決めても、それが必ずしも再現されるとは限らない(存在論脱構築が成立しない)。


 こうしてみると、確かに東の言う郵便的‐精神分析脱構築は可能であり、論理的‐存在論脱構築とは異なるものであるように見える。しかし、もう一度考えてみよう。シニフィアンの層とエクリチュールの層から言明が構成されるというとき、言明の構成に先立って2つの層がある。そこで2層の間にある言明Xが構成され、また別の言明Yが構成されたとする。このとき、XとYが同じか違うかが判別可能でなくてはならない。もしそれが判別不能であるなら、言明の真偽が一義的か否か、言明が再現されているか否かもいうことができず、脱構築が成立しない。したがって、XとYを同一の地平におきながら、かつXとYの主観性=シニフィアンと物質性=エクリチュールとは異なるものがなくてはならない。それはXが言明であり、Yが言明であるとするところのもの、すなわち言明を言明として同定するものであり、言明の形式である。つまり、郵便的‐精神分析脱構築は、シニフィアンの層とエクリチュールの層以外に、言明の形式がなくては成立しない。

 この言明の形式とは何か。もう一度、論理的脱構築、すなわち自己言及のパラドックスに戻って考えてみよう。「この文は偽である」の自己言及性は、「この文」(シニフィアン)が「この文は偽である」(シニフィエ)を指しており、かつ両者が「こ」、「の」、「文」、「は」、「偽」、「で」、「あ」、「る」という記号(エクリチュール)を共有することで成立している。しかし、実はこれだけでは十分ではない。これらシニフィアンシニフィエエクリチュールを同一の地平におくことを可能にするものがなければ、この自己言及性は成立しない。この文この文は偽である「こ」、「の」、「文」、「は」、「偽」、「で」、「あ」、「る」を、別々のものとして区別しつつ、ひとつの地平におくもの、それは<>そのものであり、これが言明の形式である。

 言明の形式はシニフィアンエクリチュールをひとつの地平におく。自己言及文においては、そこにシニフィエが含まれる。では、そもそもシニフィアンエクリチュールとは何であろうか。先に検討したように、シニフィアンとは言明の解釈を可能にする主観性であり、エクリチュールとは言明を構成する記号の形状である。それらは、決して言明の形式から離れて成立するものではない。つまり、シニフィアンというもの、エクリチュールというものがあるのではない。それらは言明の形式を規定するものである。シニフィアンとは言明の形式の主観的な規定であり、エクリチュールとは、言明の形式の物質的な規定である。したがって、それらは単数でも複数でもない。そしてそうである限り、存在論脱構築と郵便的脱構築に違いはない。では、なぜそれが区別可能なのか。それは、言明の形式にその規定を還元するからである。つまり、言明の形式を前提とするときに、はじめて「シニフィアンの層」と「エクリチュールの層」なるものが構成されるのである

 しかし、それでも東はこの違いをぎりぎりまで描き出そうとする。なぜか。ここで柄谷行人<切断I>が、自らの記述=言明の地平を、自己言及的な形式体系を可能とする言明の地平に一致させることであったことを思い出そう。すなわち、東はこの時点で、中期柄谷と同じ地平にいる。つまり、東と中期柄谷は自己言及的な形式体系を可能とする言明の地平=言明の形式を共有している。しかし、柄谷はそれが言明の形式であることを特定しないまま、その地平にいる。東はその同じ地平にありながら、<切断I>の前後を反復することで   つまり、論理的‐存在論脱構築と郵便的‐精神分析脱構築を往復することで   その地平を可能にしているものを示そうとしているのである。そしてそれはぎりぎりとのころで成功しない。なぜなら、それは結局、自らの地平を確認する作業にほかならないからである。もちろん東はそれを理解している。だからこそ東は自らの試みがデリダ(柄谷)の読解に過ぎないと告白し、それをやめると宣言し、その地平へと埋没することになる。それは、別の経路からやはり言明の地平に埋没していった柄谷の<切断II>に等しい。このとき、東浩紀はまさに「可能なる柄谷行人となったのである。


存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて


トランスクリティークポストモダン」草稿(了)

*1:同、p215。

*2:なお、シニフィアンエクリチュールの二重性と管の連結可能性は、結局は同一のものであるとされる。「第一にDaは二枚重ねにならねばならず、第二に無意識は他者の無意識と連結されねばらなない。しかし多少検討すれば明らかなように、この二つの要請は決して異なるものではない。無意識が意識を介さずエクリチュールの送受信をできるということは、Da=世界のなかにエクリチュール(物表象)としてのみ記載される情報、つまりオリジナルなしのシミュラークル、いわば純粋な幽霊が存在することを意味するからだ。その情報は外界から到来し、シニフィアンとして固有化=意識化されることのないままUbwへと崩落している。それゆえ後者の要請は、結局前者に帰着する。」『存在論的、郵便的』、pp320−321。

*3:同、p260。

*4:言明Aは、字義通りにとるかぎり「「この文」は偽である」だが、「この文」が言明Aそのものを指していると解釈すると、「言明Aは偽である」となる。しかし言明Aは「言明Aは偽である」といっているのだから、それが偽であるのなら、言明Aは真である(すべての言明の真偽が一元的に決まる体系のなかでは、言明は偽でなければ真である)。こうして言明Aは偽でもあり、真でもある。

*5:言明Aは、その一部を構成している「この文」という部分が、言明Aを指していると「誰か」が解釈しなければ自己言及文とはならない。このとき「この文」はシニフィアンであり、言明Aはシニフィエである。逆に「誰か」が言明Aを解釈しなければ、「この文」はシニフィアンではない。ただ言明Aがあるだけである。つまりシニフィアン=「この文」は、言明Aの解釈可能性=主観性である。

*6:言明Aであれば、「こ」、「の」、「文」、「は」、「偽」、「で」、「あ」、「る」という線の塊をさす。