(3)
勘違いしないでいただきたい。
私は言論など役に立たないと馬鹿にしているわけではない。
「ごちゃごちゃ言うより、行動しろ、実践しろ」と叫ぼうとしているのでもない。
ただ、言論にはいったい何ができるのかと問うているのである。
そして、なぜ皆、その問いを避けようとするのかと問うているのである。
先日、私に対して「40年前の議論」だという指摘があったが、それにはまさしくその通りだと答えておく。
ここに明言しよう。
この問いは、かつてサルトルが発したものの不評を買い、黙殺され続けてきたあの問い、「飢えた子を前に文学に何ができるのか」の変奏にほかならない。
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サルトル・・・それは忘れられた存在である。
そうでなければ、忘れられるべきものとして記憶されている存在である。
1940年代から60年代にかけて、フランスのみならずヨーロッパの思想界に君臨したこの全体的知識人は、ひろくアジア、南米にまでその名を轟かせながら、その後、急速に影響力を失った。
いまやその名は、多少の感傷と憐れみとともに口にされるのみである。
サルトル研究者の永野潤はこの状況を「サルトルフォビア」と呼び、「サルトルはいまでも現役である」と主張している。
私はそれに全面的に同意する。
そして同意するがゆえに、その思想を根こそぎ葬り去らねばならないと考える。
どういうことか。
先の思考実験で、閉じたコミュニティにおいて<正しい意見>を発信し、ひとびとの行動に影響する特権的な思想家。
これは、まさしくサルトルのことである。
そして、開かれたコミュニティにおいて党派争いをしている名もなき思想家、それがわれわれである。
そう、確かにサルトルは現役なのである。
サルトルは死んだが、かわりにわれわれがプチ・サルトルになったのだ。
そしていま、この世界を覆いつくした無数のプチ・サルトルたちが、そうすれば何かどうにかなるのかなど微塵も疑うことなく、サルトル気取りであたりかまわず<正しい意見>を垂れ流しているのである。
サルトルの言葉を借りるなら、まさに「サルトルは現代の乗り越えられない地平」なのである。
だからこそ、われわれは長いあいだ放置され続けてきたこの問いに立ち向かわなくてはならない。
われわれの思考が乗り上げてしまった、大きな暗礁を乗り越えるために。