(1)
このところ立て続けに問いを発してきた。
- 正しいことを言えばそれで何かどうにかなるのかね、この言論過剰の時代に
- 白石市民の、白石市民による、白石市民のための「日本」思想では、「日本」は微塵も変化しないんじゃないのかい
- 米軍に口唇裂を治してもらう貧しいベトナム人の子を前に反米を語れるのか?
なかには、その一方的な書き方に反感を抱いた人もいるだろう。
しかし、これらは問題点を明らかにするための準備作業にすぎない。
私は、ここまで柄谷行人、宮台真司、東浩紀、あるいはマイケル・ハートなど、具体的な思想家の名前を出して批判してきたが、別に彼ら個人を攻撃したいわけではない。
そんなことをしても誰の何の得にもならないし、そもそもそういう問題ではない。
私の問題意識は、個々の思想家の名前を超えて、現在のわれわれを強く支配している考え方そのものにある。
***
たとえば政治学や経済学や法学などの研究者や専門家でブログを書いている一群の人たちがいる。
彼らは他人の本やブログ記事を評して、「こいつの政治、経済、法律の理解はダメだ」とこき下ろすことで人気を博している。
なかには、単にけなすだけではなく「こうすべきだ」という建設的な見解をつけ加える人も少しはいる。
いずれにせよ、そうするとコメント欄やブックマークが賑やかに盛り上がる。
そしてそのブログ記事を、また別の専門家が言及し、そこでまた盛り上がる。
こうしてブロゴスフィアのあちこちで、カーニヴァル(鈴木謙介)が巻き起こる。
いまや見慣れた光景である。
もちろん、彼らはその道の専門家なのだから、それぞれ真剣にものごとを考え、本当に<正しい意見>を言っているのだろうと思う。
だから、門外漢の私がその議論の内容についてどうこういうつもりはない。
ただ、ひとつだけ純粋な疑問がある。
そうやって「あいつは間違っている」「本当の問題はこれだ」「だからこうすべきだ」などと、<正しい意見>をブログに書き、コメント欄を盛り上げることで、政治や経済や法律が<正しく>なるのか?
<正しく>までならなくても、何か少しでも現実社会に影響が出るのか?
出るとすれば、どうやって?何が?どれくらい?
残念ながら私の見る限り、彼らのなかにそういう問題意識はない。
私には、彼らが現実社会をダシにサークルの中でおしゃべりしているだけにしかみえない。
だから、日本社会の「現実」という非常に重要なことが論じられているはずであるにもかかわらず、私はその議論の内容にさっぱり興味を覚えないのである。
これは何もブログに限ったことではない。
学会発表とか論壇誌の論文とか新聞の識者コメント、さらには日常会話でもそうだ。
世界の情勢を的確にとらえ、高度な政治経済理論や、あるいは統計ソフトを駆使して社会の「現実」を分析し、そこからあるべき姿を導く。
そしてその<正しい意見>を、人前で喋ったり紙に印刷したりネットに書き込む。
そこまではいい。
じゃあ、その先はいったいどうなるのか。
それは・・・世論が盛り上がって、有権者の声によって政治家が動き、有能な官僚がそれに応え、国が動く・・・。
それは本当か?
いったい、あなたの<正しい意見>のどこにそんなものが保証されているのか。
保証されていない?
じゃあ、その命運は、いちかばちかの運次第じゃないか。
果たしてそんないい加減で心許ないものに、<正しい意見>を称する資格があるのだろうか。
(不定期に続く)
米軍に口唇裂を治してもらう貧しいベトナム人の子を前に反米を語れるのか?
今日は午前中、ビンフック・コミューンの小学校に行き、米海軍の医療船USNS Mercyの活動を視察してきた。
USNS Mercyは、もちろん本来は戦時に負傷兵を治療するための船なのだが、平時はこういう慈善医療ミッションを行なっていて、ニャチャンに来る前は、ベトナムのダナン、フィリピン、ミャンマーで活動していたらしい。
こんな巨大な船で、
(写真は米海軍のサイトhttp://navy.com/より)
中には1000人以上が入院可能な設備があり、医療スタッフだけで800人以上(!)が乗船している*1。
今回のミッションでは、ニャチャン市内5箇所の小学校を順々にめぐり診療活動を行なっている。
各所で40人以上の医療スタッフが活動するのだが、興味深いことに毎日メンバーが交代する。
邪推かもしれないが、あまりにスタッフが多いのでこうしないと何も用事がないひとがでてくるのだろう*2。
***
では、これまで当地で2年間仕事してきた医者の目からその活動を評価してみる。
まず、患者は毎日500人以上が訪れる。
これは事前に県の衛生局が希望者を募ったものである。
患者リストを見たわけではないので、あくまで見た範囲内での判断だが、大半は腰痛とか高血圧とか、いわゆる「軽症患者」である。
言い換えれば、別にわざわざ米国医療団にみてもらわなくても現地の医者にかかれば十分なひとたちで、現に大半はすでにかかっているだろう。
たぶん患者は「世界の先端をいくアメリカの医者ならベトナムの医者よりもっといい治療をしてくれるにちがいない、無料だし行っておいて損はない」と思ってきているだけである。
もちろん、それは患者の権利であってそうするのは当然だが、実際にはそれほど違いがあるわけではない(そもそも一回の診療で治るわけではない)。
強いて言えば「アメリカ人の医者に診てもらったけど今の治療と同じだった」という安心感が得られることくらいだろう。
はっきりいえば、こうした患者層にはあまり貢献しているとはいえない。
ただ特筆すべきは、歯科治療と口唇・口蓋裂(兎唇)手術である。
学校の教室一部屋を、20人以上の医療スタッフが活動する歯科治療室に仕立て上げている。
たった一日でこれだけの医療設備を整えることができるのは軍隊より他はなく、ごく一部の国際NGOが太刀打ちできるかどうかだろう。
そして毎朝、口唇・口蓋裂の子供を例の医療船まで搬送し、総計100人の子供の手術を行なっている。
もちろん、すべて無料である。
ベトナムの小児医療は、基本的な健診や薬は無料だが、高度な手技を要する手術や歯科治療は有料である。
しかもニャチャンからは、450キロ離れたサイゴン(ホーチミン)までバスや列車で一晩かかって行かなくてはならない。
途上国とはいえニャチャンはそれほど貧しい地域ではないが、それでもその費用が払えずに治療を断念している人たちはたくさんいる。
その子供たちと両親にとって、この事業が大変な恩恵をもたらすものであることは間違いない。
***
さて、視察を終えての感想。
先日も書いたように、到着当日は米共和党のジョン・マッケイン大統領候補の奥さんがプレスを従えて訪問するなど、極めて政治的な意味合いが強い(右上写真はAP通信の記事より引用。この両党の候補がそろった時期に、ベトナム戦争の英雄マッケインの奥さんが、かつての激戦地ニャチャンに上陸し子供の肩を抱く。しかもその子はご丁寧に「I LOVE NY」のシャツを着ている!)。
加えて、ごく短期間(わずか10日間)に過剰なヒト、モノ、カネを動員し派手な活動をするだけで、ベトナム本来の医療制度を完全に無視しており、なんらその発展に寄与することもない。
まったくもって、米政権のプロパガンダ事業に過ぎない。
NGO関係者の中には見に行ったというだけで眉をひそめる人もいるだろう。
しかし、たとえどんなにそこに不純な動機が見え隠れしようと、その結果、100人以上の貧しい子供たちが、いじめられて泣いたりせずに通りを走り回ったり、上手く喋ることができるようになったりすることは確かである。
果たしてわれわれは、この子たちの目の前でこのアメリカの事業はくだらないと言えるだろうか?
白石市民の、白石市民による、白石市民のための「日本」思想では、「日本」は微塵も変化しないんじゃないのかい
ここニャチャンでは、午前11時半から午後1時半までの2時間は公式のお昼寝タイム。
公共機関に行っても全職員が爆睡しているのでご注意を。
***
先日の『思想地図』のシンポジウムに関するエントリーに対して、賛否両方のコメントを頂いた。
どうもありがとう。
さて、そのなかにこのような指摘があった*1。
いわく、これは出版のイベントにすぎないのであって、宮台真司や東浩紀らは書籍の売り上げを増やすために意図的に対立を演じて見せているのだと。
これを拡大解釈すれば、宮台や東は<正しい意見>ではなく、言論の消費を問題にしているのだから、決して「正しいことを言えばそれでどうにかなる」と信じているわけではないということになる。
いいだろう。
彼らの心のうちは知りようもないが、そうは信じていないといわれればそうなのかもしれない。
しかし、当人たちがどう思っていようと、結局、彼らはそう信じているのと同じように振舞っているのではないか。
宮台や東自身がどう言っているか知らないが、言論の内容が正しいかどうかではなく、その言論が社会内でどう消費されるかが問題なのだとしよう。
つまり、抽象的な考察によって導かれた<正しい意見>を社会に広めるのではなく、社会の需要に応じた言論を発することが重要なのだと。
一見、後者は前者と違って、より現実的で実践的な行為のようにも見える。
しかし、実際には何も違わない。
前者が理論によって<正しい意見>を導き、後者が社会の観察によって<正しい意見>を導いているというだけのことである。
それを導く過程がどうであれ、言論を発すればそれが社会に影響すると信じている点では何ら変わらない。
その意味では、彼らは、彼らがすでに過去の遺物として葬ってしまった柄谷行人と同じである。
柄谷は「自由でなくとも自由であれ」という倫理、そして「無限の未来にむかってアソシエーショニズムを実現せよ(市場経済において利潤を生まない交換をめざし続けよ)」という理念を示す。
この奇妙な倫理=理念は、実は「この命令に従うな」という禅問答の裏返しである*2。
禅問答は聞くものを身動きできなくさせるが、柄谷の倫理=理念は聞いたものを一切拘束しない。
逆に言えば、それを聞いたものの行動に影響を及ぼさない。
要するに、何か深遠なことを大声で叫んでいるように見えて、実際には何も言っていないのと同じなのである。
しかし、柄谷はこれこそ社会変革の手段であるとして社会へ向かって叫び続けている。
それが思想家の使命であると信じて。
その結果は、当人と読者との間にそこはかとない連帯感を醸し出すだけで、現実の問題はほったらかしにされたままである。
言っている内容こそ違えど、宮台や東の言論もこれと同じことだ。
どんなに社会はこうあるべきだと叫ぼうと、結局その「社会」は彼らの言葉を聴いているものの範囲を超えず、いつまでたっても当の現実には到達しないのだ。
私の言っていることに納得がいかないというなら、柄谷や宮台や東の著作をすべて読み、言論をつぶさに追いかけ、それに賛同している人間がどれくらいいるか想像してみるがいい。
せいぜい、それぞれ数千人だろう。
その名前と思想が一致し、なんとなく好感を抱いているというところまでひろげれば、3人合わせれば数万人はいるかもしれない。
私は昔、宮城県南部にある白石市というところの病院で仕事をしていたことがある。
山間の小さな街で、うーめんが特産である。
この白石市の人口が4万人弱である。
確かに彼らの言論は、この白石市民に相当する数の人たちには影響を与えるかもしれない。
では、非常にありそうもないことだが、この3人が一致団結し、その思想を統一したとしよう。
それで白石市民の全員が覚醒し、立ち上がったとして、日本の社会構造が変わるのか?
変わるわけがない。
世界の貧困にあえぐ子供たちが苦悩から解放されるのか?
そんな馬鹿げたことがあるはずがない。
せいぜい、隣の蔵王町の住人に影響が出るかどうかという程度のものである。
もちろん3人ともそれぞれ優秀なひとたちであるから、それくらいのことはわかっているはずだ。
つまり彼らははじめから本気で社会や世界を変えるつもりはないのである。
ただ、市役所のまえで「日本社会」や「世界」の問題を解決する方法を模索してみせ、市内に住む人たちの知的プライドを満足させることで、住民が日々安心して暮らせるように差し向けているだけなのである。
要するに、彼らの言論というのは読者に向けて処方される安定剤にすぎない。
それが読者を確保するために他人より<正しい意見>を繰り出そうと躍起になっている、新聞の社説やわれわれブロガーのエントリーといったい何が違うというのか。
違う?
では、何が違うのか教えてほしい。
米海軍偵察報告・・・失敗
暑い。
熱帯なんだから当たり前で、口にしても仕方ないのだけど、それ以外に言葉が出てこない。
***
例の米海軍の慈善医療団がうちの裏の小学校で活動している。
患者にまぎれて診療現場を偵察に行く。
いったいどうやってこれだけかき集めてきたんだ?というくらい医者がいる。
いかに政治的キャンペーンとはいえ、多すぎやしないか。
アポなしだったので、途中で腕に刺青を入れた屈強なお兄さんに止められた。
当たり前だな。
週明けに正式に訪問することにします。
USNS Mercy
いまニャチャン港沖に巨大な白い船が停泊している。
米海軍の医療船で、子供に無料で形成手術を施すためらしい。
ついでに米共和党のマッケイン大統領候補の奥さんも来ているらしい。
http://news.yahoo.com/s/ap/20080619/ap_on_el_pr/cindy_mccain
おかげで秘書兼通訳のヤンが借り出されてしまった。
こんなところにまで大統領選の影響が来るとはね。
正しいことを言えばそれで何かどうにかなるのかね、この言論過剰の時代に
今朝も病院の近くで不法屋台の強制撤収。
このところ、毎日のようにこういう光景をみかける。
来月に迫ったミス・ユニバース大会に備えて公安がはりきっているらしい。
***
さて、目に入ったのでいちおうコメントしておく。
『思想地図』発刊記念シンポジウム
「公共性とエリート主義」
東浩紀×北田暁大×姜尚中×宮台真司×鈴木謙介http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20080617/1213664146
http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20080616/p1
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080617/1213688976
「公共性とエリート主義」 いまどきの日本の思想家や文系の学者たちは、なぜこんな奇妙な話をしているのか。
シンポジウムを聞いている人には、その本当の理由がわからなかっただろう。
それは話している人たちにもわかっていないからである。
だから摂氏36度の共産党一党独裁国家から、私が代わりに説明しよう。
***
今更いうまでもないことだが、現在は言論過剰の時代である。
われわれの手もとには、容易に情報を発信する手段がある(もちろん、それは日本を含む先進国の一部に限られるが、現実的にこの文章を読むのは日本人だけなので、以下いちいち断らない)。
その結果、新旧問わずあらゆるメディアにおいて、膨大な量の言論が渦巻いている。
それらは、保守から革新まで、あるいは現実派から理想派まで、ありとあらゆる見解の可能性を網羅しながら、日々増え続けている。
そんななか、誰かの発する<正しい意見>はどのような運命をたどるか。
大半はその他の大量の<正しい意見>のなかに埋もれ、いつまでたっても社会に影響を及ぼすことなく、単なる意見のままでその一生を終える。
非常に運がよければ、一部の有権者の投票や消費行動に影響し、あるいは一握りの「有能な」政治家や官僚やマスコミの力によって、多少は社会に反映されるかもしれない。
しかし、たとえ反映されたとしても、そもそも無数に<正しい意見>があるのだから、どれかひとつだけが社会を全面的に支配するなどということはありえない。
かくて<正しい意見>が社会に及ぼす影響は果てしなく小さなものとなる。
また、この言論過剰は、同時に発言者の過剰でもある。
無数の発言者たちは、そのほとんど影響力のない言論を手にどう振舞うか。
いつまでたっても自分の<正しい意見>は社会に反映されない。
誰の責任か。
もちろんそれは、<正しい意見>を発している<正しい自分>の責任であるはずがない。
それは、それを反映するはずのもの、つまり政治家、官僚、マスコミ、大衆の責任である。
だから社会には原理的に「無能な政治家や官僚」「マスゴミ」「無知な大衆」しか存在しないことになる。
ちなみに「若者の苦悩を知らない大人たち」というのもこれに入る。
しかしこの発言者たちも、自らの<正しい意見>を反映させるには、結局はこの「無能」で「ゴミ」で「無知」な連中に拾い上げてもらうほかはない。
だから自分の意見が人の眼に触れる頻度を上げようと、その言論を増産し続ける。
こうして言論は果てしない価値下落のサイクルに陥る。
***
さて、この状況に困っているのが昔ながらの思想家や文系の学者たちである。
彼らは、これまで社会を分析し、<正しい意見>を言うことで、社会を導いたつもりになってきた。
彼らには<正しい意見>だけが社会への介入手段であり、「正しいことを言えば何かがどうにかなる」と信じている。
しかし、この言論の価値下落のサイクルのなかで、思想家がいかに<正しい意見>を叫ぼうと、それが社会に及ぼす影響は微々たるものだ。
そこで彼らは、なんとかそれを反映させる方法を考える。
自分の<正しい意見>を、言論以外の力をかりて社会に反映させる回路を夢想する。
それがこの「公共性とエリート主義」に他ならない。
彼らは言う。グローバリゼーションによって社会の関係が希薄になった。
だからそこに「公共性」を回復する方法を考えなくてはならない。
このとき、そこで回復されるものとして想定されている「公共性」とは<正しい意見>を反映する回路のことである。
ではその<正しい意見>を発するのは誰か。
それはもちろん思想家である。
結局彼らは、自分たち思想家の<正しい意見>(だけ)を社会に反映する回路を確立せよ、と社会にむかって叫んでいるのである。
それが宮台の「エリート(<正しい意見>を社会に反映する特定集団)」であり、東の「政治システム(個人の現状認識によらず自動的に<正しく>社会の動きを調整する力)」であり、あとは誰が言っているのかよく知らないが「方法としてのナショナリズム(ナショナリズムを利用して人々を政治参加させ、民主的に<正しい意見>を反映させる)」とかいうものなのである。
じつに単純な話である。
もちろん、それが本当に実現されるなら、それはそれで結構なことだ。
しかし悲しいかな、どこまでも「正しいことを言えば何かがどうにかなる」という考えが染み付いている彼らは、結局、この「エリート主義」とか「政治システム化」とか「方法としてのナショナリズム」すら、人前で論じさえすれば誰か つまりは政治家や官僚やマスコミや大衆 がどうにかしてくれると思っているのである。
じつにナイーブな人たちである。
残念ながらそれは無理である。
そもそも言論の価値下落を背景として、言論以外の力に頼ろうとしているのに、それを言論だけでどうにかすることなどできるわけがない。
だいたい、こんな微小な思想家サークルの中でさえ<正しい意見>が違うのである。
そのどれかひとつどころか、どれひとつとして実現しないだろう。
かくして彼らは、われわれブロガーを含む無数の無名の発言者たちとともに、「無能な政治家や官僚」「マスゴミ」「無知な大衆」「若者の苦悩を知らない大人たち」への不満を言い募り、言論の価値下落に加担するだけなのである。
***
もっとも、その意味では「口先だけの思想家」に向けられたこのエントリーも同罪なんだけどね。
書評:福岡伸一『生物と無生物のあいだ』
昔話からはじめよう。
もう10年以上も前のことだが、医学生時代、私は生命科学の一般啓蒙書を読むのが好きだった。
科学的事実だけが並んでいる教科書とは違って、生命とは何か、遺伝子とは何か、脳とは何か、といった本質的な問いに迫る自由な発想がそこにはあった。
そういう本では、たいてい「古い」要素還元主義が批判されていて、「新しい」システム論的な考え方こそ重要であると主張されていた。
<有機体のシステム>――その言葉は当時急速に普及しつつあったコンピューターのイメージと相まって、とても魅力的に聞こえたものだ。
しかし、6年生になったある日のこと。
大学病院での脳神経外科の臨床実習中に、同級生が指導教官に聞いた。
「脳はシステム」という考えについて、先生はどう思いますか?と。
30代で現役バリバリの脳外科医はその質問を一蹴した。
「そんなもの、どこにあるんだよ?俺は毎日、脳を触っているけど、どこにもないぜ!」。
なんと「古い」人間だ、私はそう思いつつも、何も反論することができなかったのだった。
***
こんなことを思い出したのは、分子生物学者・福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』を読んだからだ。
ちょっと前に出た本だから、何をいまさらと思われるかもしれないが、そこはベトナム在住ということでお許し願いたい。
この本は、新書のベストセラーとしては例外的に面白い本である。
本書で福岡は、生命科学の歴史を人間ドラマとして描きながら、ルドルフ・シェーンハイマーの実験を参照しつつ、ひとつの生命像を提示している。
それは<生命とは動的平衡にある流れである>というものである。
フレーズそのものはやや陳腐だが、要するに、諸々の物質がただランダムに移動していて、その過程で相互に接触する結果として生命が形成される、というようなイメージである。
この考え方はシンプルだが、とても興味深いものだ。
河本英夫は『オートポイエーシス――第三世代システム』で、<有機体>をモデルとしたシステム論を大きく3つの世代に分類している。
それによれば、第1世代の代表が動的平衡システム、第2世代の代表がハイパーサイクル、第3世代がオートポイエーシスである。
しかし、福岡の示す生命像は、そのどれにも属さない*1。
内部と外部という概念がないのはもちろんのこと、それ以前に、根本的に構成素を産出するという概念がない。
すべてが物質=構成素だから、産出される必要がないのだ。
そして、あるのはただそれら物質の持つ物理的な特性だけである。
その結果としてさまざまな構造が形作られるが、それに何か働きがあるわけではない。
細胞とか個体とかよばれるものは、その<流れ>の一断面にすぎない。
ここで注目すべき点は、この生命像を一般化して脳とか人間社会にあてはめることはできないということである。
なぜこの点が重要なのか?
いわゆる広義のシステム論(一般システム論)はその起源において、生命科学の知見に多くを負っている。
そしてそれは一般化され、工学、人文科学、社会科学の分野で展開され、大きな達成を果たしてきた。
しかし、私のみるところ、ますます発展しつつあるシステム工学の領域は別として、<有機体>そのものをシステムとみなす考え方は過渡期を迎えている。
何が問題なのか。それは結局、あの脳神経外科医の一喝「そんなもの、どこにあるんだよ?」に集約されると思う。
これを頭の悪い素朴実在論者の放言と思ってしまうようでは甘い。
彼が言いたかったことを、好意的に解釈すればこういうことだ。
たしかにシステムという考え方は脳の現象を説明するし、それを利用して現実的に最先端の医療機器が開発されてはいる。
しかし、俺たち脳外科医はそんな理屈に関係なく、毎日、血を観ながら脳に触って治療しているんだぜ、と。
人文科学系のひとたちなら、脳を人間社会に、治療を介入とか変革に置きかえてみれば実感がわくだろう。
要するに、<有機体>をシステムに還元する考え方=システム還元主義は、その対象に介入しようとする瞬間に、対象との現実的で素朴な一対一関係に差し戻され、すっかり骨抜きにされてしまうのである。
もっとも、こんなことは私なんぞが言うまでもなく、勘のいい人はもう気づいていることだ。
われわれはそろそろ「要素還元主義vsシステム還元主義」の対立を超えて、<有機体>への介入の理論化を模索する時期に来ている。
そのためには、少なくとも、生命も脳も人間社会も同じシステムだといって、「タンパク質」や「イメージ」や「コミュニケーション」を一緒くたに扱ってしまうような考え方は捨てなくてはいけない。
私が、福岡の示す生命像が一般化できない点が重要だといったのはそういう意味だ。
もちろん、その議論そのものはまだ介入への視点が乏しく、理論的にも未熟である(新書では仕方ないが)。
しかし、少なくとも既存の<有機体>論から新たな一歩を踏み出していることは間違いない。
皆さんも、本書をもう一度アカデミックな視点から読みなおしてみてはどうだろう?
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