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1.はじめに


 柄谷行人は、たびたび思想的態度を変更し続けながらも、常に先鋭的な思考を展開してきた思想家である。しかし、ある時期を境に、その影響力は急速に低下したようにみえる。それは、柄谷がみずからトランスクリティークとよぶ思想的態度に到達した時期と、ほぼ重なっている。しかし、だからといって、トランスクリティークとよばれる態度に、柄谷の思考の限界を見出すものがいるなら、それは間違いだろう。なぜなら、たとえそこに大きな思想的転回があるとしても、柄谷の思考そのものは、現在に至るまで驚くほど一貫しているからである。それゆえ、もし柄谷の限界があるとするなら、それは諸々の転回の前後を貫く思考にこそ見出されなくてはならない。

 以下では、トランスクリティークへの転回の後に書かれた、柄谷の『世界共和国へ』を読んでいく。本書で柄谷は、社会的現実を形式化することで、資本=ネーション=国家という形式に到達し、アソシエーショニズムという理念を導いている。ただ実際には、その形式化は、十分に徹底されているとはいえない。そこで私は、まず柄谷の議論を構成している諸形式を、形式的に再定義することから始める。次にこれに基づいて、本書で展開される議論を再構成する。結果、柄谷の思考が、形式的唯物論とよぶべきものであることが明らかになるだろう。最後に、柄谷がみずからトランスクリティークとよぶ思想的態度について、それが現実的に機能する範囲ついて検討したい。こうして、いっけん柄谷の限界のようにみえるものが、柄谷自身のそれではなく、現実を規定している、ある思考の境界であることが明らかになるだろう。

 ここに、現時点で予定している内容を記しておく。ただし、展開次第で変更もありうる。

  • 2.要約
  • 3.交換の再定義
  • 4.商品交換の再定義
  • 5.国家の再定義
  • 6.ネーションとアソシエーションの再定義
  • 7.議論の再構成
  • 8.トランスクリティーク


 これから行う作業は、柄谷行人の批判を目的とするものではない。私の意図は、柄谷の否定にも、柄谷の方法である批評(クリティーク)を柄谷自身に適応することにもない。そんなことをしても、何も得るものはないだろう。私がやろうとしているのは、柄谷が先鋭的に切り開いてきた、現実に対する、ある思考の範囲を明らかにすることを通して、その範囲にない思考が可能であることを示すことである。
世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)