柄谷行人を読む(5)『畏怖する人間』

 この要約で、論稿の主旨はおよそ理解できると思います。実際のところ本稿のテーマは比較的単純なもので、以下の引用部分でほぼ言い尽くされています。

要するに、漱石の小説は倫理的な位相と存在論的な位相の二重構造をもっている。それはいいかえれば、他者(対象)としての私と対象化しえない「私」の二重構造である。・・・漱石において、倫理的な位相と存在論的な位相は順接するのではなく逆接するのだ。・・・主人公たちは本来倫理的な問題を存在論的に解こうとし、本来存在論的な問題を倫理的に解こうとして、その結果小説を構成的に破綻させてしまったのである。
「意識と自然」『畏怖する人間』、p35-p36

 さしあたって日常的な言葉で言いかえるなら、「存在論的な位相」とは心の内面、「倫理的な位相」とは人間関係あるいは心の外界ということになるでしょう。柄谷はこの両者が「順接」するのではなく、「逆接」するといっているのです。つまり両者はスムーズに切り替えられるようなものではなく、引き裂かれていながら切るに切り離せぬ関係にある。この逆接が「自然」なのです。これは、本論稿のテーマであるだけでなく、『畏怖する人間』に収められているすべての論稿に共通するテーマとなっています。

 しかしながら、さきに述べたように、本稿での柄谷の問題意識は明確に整理されているわけではありません。そもそもキータームとなるべき「存在論的な位相」と「倫理的な位相」も、心の内面と外界と言いきれるほどはっきり定義されておらず、くわえてこれらに相当する概念が、次から次に別の言葉で言い換えられていくので、読むものを混乱させます。それぞれに相当するとおぼしき用語を抜き出してみると、主なものだけでもこれだけあります。

内面に相当するもの 外界に相当するもの
存在論的な位相 倫理的な位相
道理 物理
道徳規範 自然法
意識 存在
意識と意識の関係 肉体的な空間
内側からみた私 外側からみた私
対象化しえぬ「私」 対象としての自己
観念 実際


 こうして並べてみると、「存在論的な位相」と「倫理的な位相」が、必ずしも内面と外界であると割り切ってすますことができないものであることがわかります。例えば「道徳規範」と「自然法則」についていえば、前者は後者に対して社会的な意味合いが強いにもかかわらず、それを内面として「外側からみた私」に対立させるのは違和感があります。また「意識と意識の関係」に対立する「肉体的な空間」を「存在論的」と表現した(p17)後で、「対象としての私」に対する「対象化しえない「私」」を「存在論的な位相」と定義しているのは(p35、上記引用部分)、混乱のもとでしかありません。これらの逆接を示す用語である「自然」(「」つき)が、「倫理」という言葉で表現されている(p66)のも紛らわしいところです。

 こうした混乱は、本稿のタイトルそのものに象徴的に集約されています。その「意識と自然」というタイトルにもかかわらず、意識と自然の関係については、少なくともこの論稿の中でははっきりと記されていません*1。本稿で自然(「」なし)は外界に相当する言葉として扱われていますが、「自然」は内面と外界のはざまの「クレヴァス」として捉えられています。一方で、意識(「」なし)は内面に相当する用語ですが、本稿に続く「内側から見た生   漱石試論(II)」では、その意識をつきつめたところに《意識》があるという記述がみられます。

漱石は内側からこういう人間の条件を絶対的につきつめて、《意識》そのものの背立性に迫ったのである。・・・漱石は、ここにあらわれる《意識》の虚無が論理的な問題ではなく、倫理的な問題であることを否応なく知らざるをえなかったからである。
「内側から見た生」『畏怖する人間』、p100

 すなわち、少なくとも柄谷の記述に従うかぎり、意識と自然のみならず、意識と《意識》(あるいは「意識」)、自然と「自然」も区別されるべき概念なのです。したがって本稿のタイトル「意識と自然」には、その気になれば、多重の意味を読み取ることができるでしょう。つまり、(1)単に心の内面と外界のことをいっている、(2)内面と、内面と外界のはざまにある「自然」のことをいっている、(3)内面をつきつめた《意識》と「自然」のことをいっている、いずれの可能性もあるということです。しかしながら本文中での用語の混乱を見る限り、柄谷がこのタイトルをつけた時点で、意図してこのような複雑な意味をこめたとは思えません。要するに、単に混乱があるのです。


(続く)


畏怖する人間 (講談社文芸文庫)

*1:唯一それに相当するのが、「意識にとって自然とはなにか、漱石はこういう問いをもはやどんな抽象的な概念によっても問うてはいない。「自然」は自分に始まり自分に終る「意識」の外にひろがる非存在の闇だが、漱石はそれを神とも天ともよばない。あくまでそれは「自然」なのだ。なぜなら、漱石は超越性を、ものの感触いいかえれば生の感触を通してしか見出そうとしなかったからである。」(p58)の部分であり、おそらくタイトルもここからとったものと思われるが、しかし、これだけでは意識と自然、「意識」と「自然」の関係は不明である。