2008-01-01から1年間の記事一覧

最近、カンホア総合病院の警備をしている警備会社が新人を大量採用したらしく、入口でいちいち止められる。すっかり顔パスに慣れてしまい、通行許可証もどこかにやってしまったので、その度に顔見知りの警備員を探してこないといけないのが面倒である。 8歳…

柄谷行人を読む(27)『日本近代文学の起源』

すでにあきらかと思われますが、最初にも述べたように、本書の議論の構図は『マルクスその可能性の中心』と完全な対称関係にあります。もう一度確認しておくと、『マルクスその可能性の中心』の構図では、まず実存の問いが人間に還元され、人間が物質に還元…

柄谷行人を読む(26)『日本近代文学の起源』

ここまで『日本近代文学の起源』の内容をひととおり読んできました。まとめると、前半部では言文一致と「告白」という制度によって成立する「風景」と「内面」が、中盤部では政治的制度=社会的諸関係によって規定される人間科学が、後半部では「深層」とし…

柄谷行人を読む(25)『日本近代文学の起源』

要約:『日本近代文学の起源』、VI「構成力について」 森鴎外は「理想」を主張することで、坪内逍遥の併列的な分類を時間化しようとした。 しかし鴎外は大正期に入って「歴史小説」を書き、作品における配置を非中心化する。近代文学の配置を形成した鴎外自…

柄谷行人を読む(24)『日本近代文学の起源』

要約:『日本近代文学の起源』、IV「病という意味」、V「児童の発見」 香田蘆花の『不如帰』で、主人公は結核によって美しく病み衰えていく。ここで結核はメタファーとしてあり、結核の神話化がある。 結核菌は結核の原因ではない。結核菌が結核の原因だとい…

柄谷行人を読む(23)『日本近代文学の起源』

そこで、この前半部で論じられている「風景」、「内面」および「記号論的な布置」というものをはっきりさせておくことにしましょう。それにはいくつかの段階が必要です。ここでは「内面の発見」の議論にしたがって、「風景」と「内面」が言=文によって成立…

柄谷行人を読む(22)『日本近代文学の起源』

ではこの諸概念の相互関係に注目しながら、前半部の内容を振り返ってみましょう。まず「風景」とは、さしあたって客観的存在物であり外界のことです。さしあたって、というのは、この言葉が指すものに関して多少の混乱があると思われるからですが、詳しくは…

柄谷行人を読む(21)『日本近代文学の起源』

『日本近代文学の起源』は『マルクスその可能性の中心』と違って、明確な起承転結があるわけではありません。しかし、その論点から大きく3つのパートに分けることができます。すなわち、近代文学の基本概念の成立を論じた前半部(I「風景の発見」、II「内面…

柄谷行人を読む(20)『日本近代文学の起源』

『日本近代文学の起源』は、「季刊藝術」1978年夏号〜1979年冬号、「群像」1980年新年号〜6月号に掲載され、1980年に単行本として出版されました*1。ごく一般的な解釈からすれば、本書の内容は、われわれにとって自明と思われる「風景」や「内面」といった概…

カンホア総合病院で開催されたHandicap International主催のセミナーにオブザーバー参加。Handicapは主に途上国における障害者支援を目的として活動する国際NGOで、世界に8つの支部をもち、50カ国で活動している(Handicap International Annual Report 2006…

朝の小児科ICU回診。レジデントノートにでも載っていそうな2例。 1歳半男児。元来健康であったが、2日前から突然左腕を動かさなくなった。小児科当直医が左肩のレントゲン写真と頭部CTを撮像し、放射線科から「左肩関節と頭部に異常所見なし」とレポートが返…

だんだん暑くなってきた。ルイジアナのプールで泳ぐ。

カンホア省衛生局で会議。グエンティンテャットのスペイン料理屋で打ち上げ。

柄谷行人を読む(19)『マルクスその可能性の中心』

あらめてこの自己批判の構図を検討してみてみましょう。まず人間と物質は違うという現実があります。しかし、ただ単に違うというところにはいかなる関係もなく、社会の問いもありえません。社会の問いは、単に違っているだけの人間と物質の間に、何らかの関…

柄谷行人を読む(18)『マルクスその可能性の中心』

したがって柄谷がいう「貨幣の形而上学」批判は、貨幣じたいに向けられたものではありません。貨幣とは、人間と物質のもろもろの関係をすべて物質に還元する唯物論の結果として生み出されたものだからです。その批判は貨幣を生み出すもの、つまりは唯物論を…

柄谷行人を読む(17)『マルクスその可能性の中心』

この現実が、まず使用価値に転化します。それはどのようにしてなされるのか。使用価値というものは、ある物質の「使用」ともうひとつの物質の「使用」を比べるところに生れます*1。たとえば、ただ鉛筆で字を書いている限り、それはどこまでも「使用」にすぎ…

柄谷行人を読む(16)『マルクスその可能性の中心』

最初に私は、本書と『意味という病』の間に「切断」はないと述べました。これからその理由を明らかにすることにしましょう。もう一度、『意味という病』の議論の構図を確認しておきます。それは「実存か社会か」という問いに対して、実存の問いも社会の問い…

柄谷行人を読む(15)『マルクスその可能性の中心』

要約:『マルクスその可能性の中心』終章 思考を強いているのは言語である。西洋形而上学において、論理学と存在論は切り離せない。言語における主語と述語を結ぶ「Be(存在)」の問題が、そのまま存在論に移行する。 同様に「貨幣の形而上学」は、関係を存…

柄谷行人を読む(14)『マルクスその可能性の中心』

要約:『マルクスその可能性の中心』第5、6章 『資本論』は商品というテクストを「読んだ」。マルクスの思想に切断を見出す作業は恣意的である。マルクスの思想は、テクストの読解にある。一般に切断といわれるところで、マルクスはただ移動したのである。 …

柄谷行人を読む(13)『マルクスその可能性の中心』

要約:『マルクスその可能性の中心』第2〜4章 2つの商品が等置されるとき、一方の商品の価値は、他方の使用価値で示される。このとき、相異なる使用価値から価値がうまれる。これが相対的価値形態と等価形態の結合である。 これが「拡大された価値形態」にお…

柄谷行人を読む(12)『マルクスその可能性の中心』

書物としての『マルクスその可能性の中心』には、表題作である「マルクスその可能性の中心」以外にも、「歴史について 武田泰淳」、「階級について 漱石試論I」、「文学について 漱石試論II」という日本文学に関する3つのエッセイが収められています。柄谷自…

柄谷行人を読む(11)『マルクスその可能性の中心』

今回は『マルクスその可能性の中心』をとりあげます。参照するのは1990年発行の講談社学術文庫版です。 本書は、いうまでもなく柄谷の代表作のひとつであり、一連の論稿群を読解する作業においてもひとつのメルクマールとなるものです。一方で、そのタイトル…

サイゴン・センタービルの向かいのフォー2000で昼食後、15時の便でニャチャンへ。出張とテト休暇を利用した日本滞在も終わり、久々の帰宅。

サイゴン・センタービルのカフェテリアで昼食。夕方、中央公園の一角にある砂場で子供を遊ばせる。夕食はクアン・アン・ゴン。

サイゴン到着。気温は31度。テト明けで、そこらじゅうに正月の飾りが残っている。宿泊はチャンセリー・サイゴン。

柄谷行人を読む(10)『意味という病』

このように考えると、柄谷が何を議論しているのかがはっきりするでしょう。まず、これまでとりあえず内面と外界という言葉でよばれてきたものは、正確に実存と社会に置き換えられなくてはなりません。そうすると『畏怖する人間』での柄谷は、私たちの生の本…

品川からのぞみで広島へ。

新宿駅へ。1時間前に着くも、場所を間違え、待ち合わせに遅れる。その後、秋葉原で一泊。

今日から休暇。かもめで長崎から博多へ。

(3)

最初に断っておくが、私はべつに東浩紀を批判しているわけではない。東は現在の日本において最も優れた批評家のひとりであって、私は掛け値なしにそう評価している。ただ、彼の考えと私のそれとの違いははっきりさせておきたい。 前回私は、東が想定する物語…